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江戸時代の転封や改易につき、金森重勝を初代とする金森左京家を例に質問します。?金森藩(飛騨高山藩)の時代に、高原郷3,000石として藩内で成立したそうですが(藩領内分与)にて、この時は、幕府の直臣(旗本)ではない、つまり、飛騨高山藩家臣の身分と理解してます。高原郷は飛騨高山藩の領地の中であったということですね。この理解で正しいですか。?次に、高山藩が出羽上山へ転封になった際、この時、高原郷は、そのまま金森藩の領地だったんでしょうか(出羽上山藩の飛び地として)。つまり、まだ、藩領内分与であって、出羽上山藩主の家臣の扱いでしょうか。?その後、出羽上山藩は、転封で、美濃郡上藩となりますが、金森左京家は、幕府直臣にはならず、美濃郡上藩家臣のままの筈。やはり、高原郷は郡上八幡藩の飛び地の扱いだと思います。?美濃郡上藩改易のとき、金森左京家は、主家が領地召し上げなのに、どうして、3000石を維持できたのでしょうか。しかも、幕府旗本になっていますから、身分上昇みたいです。幕府から特別な配慮があったのでしょうか。


●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

▽最新の回答へ

質問者から

http://www.geocities.jp/heavenryo/siseki-new/sakyohaka/sakyohaka.htmlによると、
>金森左京重勝は、金森可重の五男として生まれ母は江馬氏の血を引く女性とされています。可重は飛騨の北部を治めていた名家の江馬氏の存続を考え重勝には江馬氏の旧領高原郷三千石を知行として与え左京家と名乗らせ、金森氏の分家が誕生しました。重勝は兄であった三代目藩主、金森重頼とも仲がよかったようで参勤交代で不在の多かった兄に代わり藩政をよく補佐して名家老と呼ばれていました。
・・・ということのようです。
これだけでは、金森藩の家臣の中の重要な家であっただけのように見えます。
つまり、主家が転封されたら、自分の知行地もなくなってしまい、付いていく筈ですし、
主家が改易になったら、知行地もなにかもがなくなり、そのまま、浪人する筈です。


なお、金森左京家は、金森本家の改易の際に、高原郷から、越前に領地を変更するそうです。
結局、越前白崎にて、旗本ということで、幕末まで存続するそうです。いつのタイミングで旗本扱いになったのだろうか、と思います。


1 ● 匿名回答2号
ベストアンサー

?は正しいと思うのですが、?と?には誤認があるのではないでしょうか?

http://www.geocities.jp/heavenryo/siseki-new/kamioka-skyoyasiki/kamioka-skyoyasiki.html
http://pandapanda.meblog.biz/article/5634312.html
等を見る限り、左京家は宗家の転封に伴って移転したように書かれています。
http://www.library.pref.gifu.lg.jp/gifuken-mokuji/hida/mokuji_top.htm
の「高原郷史の研究」の目次を見ても、飛騨高山の天領化に際して、高原郷が特別扱いされたようには思えません。

補足的な情報ですが、
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e109089.html
で祥雲寺に墓所のある人たちの名が示唆的であるように思えます。


匿名質問者さんのコメント
有難うございます。お貼りいただきましたリンク先を拝見すると、たしかに、??は事実誤認のようです。恐縮であり申し訳ございません。金森藩が飛騨高山であった時代はたしかに知行取りとして領地(高原郷)を持っていたことはわかりますが、金森藩の出羽転封後において、また、美濃郡上転封後において、そもそも左京家が知行地を得ていたかどうか、この情報だけでは明確ではないですね。ただ、後に、3000石の旗本となっていることも踏まえると、出羽上山や美濃郡上でも、3000石の格式だけは維持していたのかな、と思います(勝手な推測です)。 金森氏の改易にともない、藩主も息子も各地へお預けになったようにて、家臣達も浪人となり、就職活動に入ったのだろうと思いますが、藩主一門であった金森左京家に白羽が立ち、お家再興になったという具合なのかな、と思いました。大名ではなく、旗本としてですが、3000石なら旗本として一般的な下限は超えています。

匿名回答2号さんのコメント
祥雲寺に眠る人々及び家系図 http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/onreishu.htm を見ると、左京家はそれなりに藩の外との付き合いもあったように思えます。おそらく、その力が白羽の矢を呼び込んだのではないでしょうか。 また、越前での金森家は単なる旗本でなく交代寄合ですので、家名を存続させてショックを緩和する目的だと推測しても間違いではないと思われます。 類似例としては、例えば讃岐丸亀藩分家の山崎家があります。こちらは本家が無嗣断絶となりましたが、分知を受けていた藩主の叔父が交代寄合として存続しています。

匿名質問者さんのコメント
山崎氏の場合も、当該の家は断絶するも、家名存続させるにあたり、一族の中から、白羽の矢が立てられ、そこが交代寄合として、存続したのですね。

質問者から

?と?は事実誤認ではないか、とのご指摘をいただきました。そのとおりかと思います。申し訳ございません。


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