この件の検証OR詳細を調べています。情報ある方はお願いします。
ここは詳しいと思います ↓
http://electronic-journal.seesaa.net/category/510434-1.html
>2005年07月22日
昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築いた。
武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と命名された。
武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に攻め入って強大な王国を建てた。
>2005年07月26日
末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。
末松が指摘していることの多くは、ことばの類似性です。
例えば、「成吉思汗」という名前は「源義経」からきているというのがあります。
「源義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、
それが「ゲンギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。
蒙古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからです。
「カン」は王位の総称です。
>2005年07月28日
・小谷部氏の原文
隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、
土俗の所謂義将軍の古碑と称するものあり、
土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傳ふ。
居留日本人は一般にこれを義経の碑と称し、
而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民は現に之を
義経公園と呼びて有名なるものなり。
>2005年07月29日
その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク市にある
義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足します。
昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、その上に石碑があり、
「源義経墓」と彫られていたというのです。
・・・・・
ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山があり、
石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に割れていました。
石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その3枚を合わせてみましたら、
字が竿石いっぱいに彫られてありました。字は明らかに
「大日本源義経墓」というようにつながりました。
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ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、
石碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っているとのことです。
この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台石は硬質であり、
その磨減の古さから考えて、600~700年の星霜を経たものであるとのことです。
・・・・
ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
白色を帯びたる花崗岩の一種なり。
この石碑の表面には厚くセメントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、
過激派のなせることなりと。
・・・・・
さらに重要な痕跡と思われるものがあります。
それは、既にご紹介している「ハンガン岬」です。
このハンガン岬――もう少し正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であるらしいのです。
ハンガンではなく、「ハングアン」と発音するそうです。
シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに適当な地点が少ないのですが、
そういう意味でこの付近では重要な泊地になっているのです。
もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確認できないのですが、
シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ばれていたそうです。
そういうところから、義経一行はこの泊地から上陸したのではないかと
いわれているのです。なお、ハンガンとスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞に、
こんな話が出ているのす。シベリア出兵当時、ニコラエフスクの近くで
タタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で役者が
笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であらわれたというのです。
わけを尋ねたところ、昔から伝わっているもので、
誰が作ったかについてはわからないという返事だったといわれます。
笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けていたことになるのです。
この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居にもつけられており、
これも義経ゆかりのものではないかと考えられるのです。
他(簡単ですが・・)
すごい!よく集めましたね!!