画一性は社会を安全にするためにも必要で、工業製品に対する政府基準もありますが、何にでも応用すると間違いの元というもので、体調の悪い人の訴え以上に病院の検査結果を妄信すれば、これも画一性の為せる弊害です。
他宗徒をみなキリスト教に改宗させようと弾圧したのも画一性(uniformity)です。“Is uniformity attainable? Millions of innocent men, women, and children, since the introduction of Christianity, have been burnt, tortured, fined, imprisoned; yet we have not advanced one inch towards uniformity.” (トーマス・ジェファーソン, 1784)
どうも画一性と妄信はよく結びつくようです。
一方で、没個性は過剰に気にされていませんか?個性なんて本来、自然に誰もが持っているものを言うはずだし、奇想天外なだけでメッセージがないなら本末転倒というものです。(売り上げを伸ばすのに目立つものが求められるのは理解できますが、それは金もうけの戦略です。)
没個性より怖いのは考えなくなることだと思います。まさしく妄信状態です。自らを危険に晒し、困難を解決する力をそぎ、人間関係も社会も脅かされます。
マジョリティは多数派と日本語に置き換えて検索した方が情報を拾いやすいと思います。どういう方向性の情報を欲しているのかまだちょっと不明ですので検索結果から幾つかピックアップ。
検索ワード:多数派 思考停止
海外のブログとして投稿されたものの日本語訳(検索TOP)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52166059.html
はてなのブロガーちきりんさん(検索結果14位/検索結果9位も同内容に言及)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20050810
なお、その過程で多数派同調バイアス(集団同調性バイアス)という心理学用語があるという事実が拾えました(検索結果3位)
http://www.bo-sai.co.jp/bias.htm
結論部分はちょっと思想的に偏ってるかなとは思うのですが、多数派同調バイアスの解説としては秀逸であると感じたのが以下。
http://jiyodan.exblog.jp/11847342/
創造論を信じている専門家(専門家でなくとも)は進化論は妄信だと考えていることが多いと思います。
「人間を含む万物が無から偶然に生じることはあり得ない」
というような考え方です。
そうですね。サルと人間を結びつける進化の肝心な部分はみつかっていないらしいですね。
科学者の話が世界によく広まって、素人の私たちはてっきり本当の話と思っていたら、仮説に過ぎなかった、というものがけっこうあるようですね。
神話・寓話・伝説・学説 ~ おなじ意見の者が群れるわけ ~
〔起〕
人種差別は奴隷制度と植民政策の手段で、工業規格(JIS規格など)
は物理数学の目標である。前者はゆらぎ、後者はゆるがない。
この設問は、賛同する回答者と、賛同しない回答者を分断対立させる。
…… >「廃藩」によって「脱藩」という熟語が生れたことになります。
そういう文献がどこかにありますでしょうか?それを問うている質問です。
http://q.hatena.ne.jp/1273673596#c178539(20100516 21:20:09)
はてな原理主義では、万物に正解があり、出典を提示すべきとする。
文献があっても、実体(origin)があったとは限らないのだが……。
すると、無神論・進化論・資本論にも、原典がなければならない。
〔承〕
進化論の典拠は《種の起源》で、創造論の原典は《創世記》である。
親しい仲間うちで、冗談のあいまに論じるのではなく、見知らぬ読者
に対して発言するには、少なくとも二つの原典に目を通しておくべきだ。
わたしの人生における友人知人で、この二冊を読んだ可能性のある者
は、二人の職業的聖職者(牧師と哲学者)だけである。その他の秀才達
(最高裁判事や衆議院議長など)は、読むべき必然性がなかったはずだ。
カナダとカンヌ(プロテスタントとカトリック文化圏)定住の楽友や
凡百の同級生達は、すでに属してしまった集団が「さきに結論ありき」
とするテーマについて、もはや議論する意欲を失っているようにみえる。
〔転〕
……… この書物の全体が一つのながい議論なのであるから、主要な事実
と推論とを簡単に要約しておくことが、読者のためにつごうよいであろう。
── ダーウィン/八杉 竜一・訳《種の起源(下)19791220 岩波文庫》P185
|
…… 人類の起源と歴史に光が投げかけられるであろう。
これがダーウィンが人類について述べた全てだった(Wikipedia)。
(これを、反対派は「サルが人間に進化した」と、要約して宣伝した)
Aの子孫はB~Zまである。AがCを経てZになったり、DからEの
段階で止まった例もある。FがGに進化した証拠がなくても、すべてが
同じ起原(共通の胚)から発したことを否定できないとする。
〔結〕
ガリレイの《天文学対話》は、丁重な献辞と慎重な叙述で出版された。
スパランツァーニは「生物には親がなければならぬ」と主張した。
近年のローマ教皇は、婉曲に譲歩しつつあるが、奇蹟だけは譲らない。
……… 民族・祖国・宗派の異なる人々と、会って話そう。
http://q.hatena.ne.jp/1471346337#a1258510(No.2 20160818 12:19:21)
そもそも論 ~ いそがしい人よむべからず ~
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19850102 理科と数学
中学3年間で学ぶ5教科を、新聞紙大のカレンダーにまとめました。
http://q.hatena.ne.jp/1473307841#a1258974(No.3 20160909 06:23:29)
人間の思考力は無限でもないので、常に考え続けることはできない。
たとえば睡眠という思考中断でさえ人体には必ず必要だ。
致死性家族性不眠症 - Wikipedia
眠れないまま数年たつと、ストレスで死んでしまう。
麻薬をつかったりして無理に思考できる状態をながびかせることもできるが、
「思考」が暴走して妄想となったり、ひいては麻薬性精神病となる場合も多い。
なんでも・いつでも、考えればよいというものではない。
「教育」とは画一だ。宗教も多くの人を教育する目的で創始されたものだ。
それが邪魔だ、盲信を生むといいたいのがこの質問だろう。
たしかに、「大人になったら」自分の思想にはできるだけ責任を持てたほうがよい。
でも、そのための試行の時期としての青春は、オーバーロードしすぎて精神病を発病しやすいから
「負荷」を増やす一方では絶対にいけない。
不要な「考えろプレッシャー」が多すぎる。
25歳ごろまでには生殖に備えて体も急激に変化する。
実際出産をする人もいる。
生殖は考えてコントロールしようとしても
どうにもならない部分も多い
(これを昔の人は「案ずるより生むが易し」といった)
ので、
もうすこし自分自身を信じて成長を待ち(=あくせく考え過ぎないで)、
ゆったり構えたほうがよいのでは、と思える青少年も多い。
また知的思考力は体力のように、遺伝である程度限界は決まる。
今、学校や会社で、せいいっぱい学習し、働いて生きている人にも、
これ以上「考えろ負荷」を増やさなくても良いと思う。
ここを見落として画一や休息を敵視する専門家の言うことなどは
信用しなくてよいだろう。
「先人の肩に乗る」という言葉がある。
先人の知恵や判断を参考にすることで、労力が少なく先に進むことができる。
それがよほど万能な知恵なら、画一的であっても
みんなで一度はトライしてみるのが得策だ。
世の中には絵の上手い人がいる。どうして絵が上手いのかというと、上手に奥行き情報とか時間の推移を遮断できるからだ。
(奥行き情報や時間の推移を敢えて全く遮断せずに書いた絵のことをキュビズムという。
キュビズムは一般人が見ると「わけがわからない絵」になる)
同じように「うまく思考する人」とは、この情報過多の時代にあって、
自分に不要な情報やそれが引き起こす思考を遮断でき、
いつまでも健康にくらせる
「分別」をもった人のことかもしれない。
分別は画一であるかどうかとは別次元のことだ。
むしろ画一を恐れていては、
健全な思考をすることはできないというべきだ。
(この本には、生まれつき思考力が低い人が存在するという事実について記載されている)
自分のキャパシティを超えない限りで、毎日少しずつ新聞を読む、
テレビニュースを見るなどで
世界の情報を得、思考の幅をひろげるのはもちろん良いことだ。
今後新聞が紙束として自宅にとどけてもらえなくなったとしても、できる人は続けて欲しいと思う。
みなさん、ご回答ありがとうございます。
uniformity という英単語を見ていて、いろいろと気になってしまったのですが、日本語の「画一」は個々の事情を考えないという悪いニュアンスでしか使われないんですね。英語のuniformityは「均一なもの」の意味で良い意味にもなると読んでいて、ついごっちゃにしてしまいました。
ただ、だいぶ前に某学習サイトでこの単語に抽象的ながらぞっとする不吉な感じの画像が添えられていて、意に反して印象に残っているのですが、カルト集団か洗脳か妄信か?そんなものを漠然と暗示していました。英語のuniformityもそんな嫌な印象が強いのかなと思います。
原発のことは私も、推進してきたエリートたちは洗脳でもされていたのだろうかと思いたくなります。いくらなんでも火山列島に原子力発電って、正気の沙汰じゃなかったですよね…。火山のあるなしに関わらず、やめて欲しいですけど。
ほかにも、ちょっと考えれば当たり前のことが、なぜか人の意識から抜け落ちているようなことがいろいろ、例えば、対処療法しか知らない医者は原因に目を向けようともせず、気づかない患者も患者なんですが、その患者が気づけないのは親が見ていて知っていながら、治すべきということに気づかなかったから、その子供である患者も成長後も治すべき原因になかなか気づけないままでいるのです。
なので、教育の必要性は多大にあると思っています。
論理的思考を個人に任せるという意味ではなくて、特に基本的なことは、ものの道理、筋道をそっくり教えるのです。たとえば、人の嫌がることはしない、人の気持ちを荒げてしまったら謝る、というのは誰もが言えることですが、謝る理由となると、あまり言える人はいないと思います。私もたぶん子供の頃、「ごめんなさい」と言いなさいと言われて育ったのですが、自分の体験と漠然と感じていたことと、たまたま読んだ「相手の気持ちが癒されなければ謝ったことにならない」という言葉のおかげで、その通りだとすっきり納得できました。【追記:それが書いてあったところには、ただ「謝りなさい」と言うのではなく、ふつう、2,3日置いて、悪いことをしてしまったという気持ちを持って、謝るのがいいというヒントも書いてあり、このようにして、人には感情があるということを教えるのがこころの教育だと言っていました。それは教育の観点から書かれた本からの引用のようでしたが、そのページはモラルハラスメントの観点から書かれていました。
こうして、人にはこころがあることを知ることも大事ですし、理由を考えることもいつも大事なのだと教えていって欲しいのです。基礎段階で理由を教えるようにしていれば、理由を考えるクセができあがらないでしょうか?
『理想の国語教科書』を読むと編者の斉藤孝さんは「たとえば、道ばたに唾を吐くことは、それがマナーに反することだとされているからしないというのではなく、自分の生の美意識に反するからしないというときに、真の倫理となる」と言っています。ここまで自力で言えるようになるには、人間かなりの月日がかかります。
繰り返し言われることは当たり前に分かるけれども、それと一緒にあるべきことが言われてないと、その言われないことは抜け落ちてしまうんではないでしょうか。
マジョリティの思考停止というものを、もう少し知りたいと思います。ありがとうございました。^^】
画一が良くないというより、私が気になるのは、画一が陥りやすい、教える内容の密度の問題なのかもしれません。
果たして「考えなくなる」ことが問題かどうかは疑問です。
例えば、こちら
http://q.hatena.ne.jp/1454150161
の私の書き込みを保健所あたりの人に見られて「室温13℃ではいけない」と言われて「保護」(左翼がよく使う「」の用法、もっとも左翼でなくても「イスラム国」と書くときに使うが)されて20℃に暖房した施設に強制収容させられる世の中になったら、もちろん私自身は困りますし、それだと適材適所もできなくなります。そちらこそが問題です。ついでに言うと保健所に見つかると困るからその質問に答えられなくなります。私は室温13℃で何の問題もないのですから、それを治すのではなく逆に食品流通過程に転職を志せばいいのですし、実際そうしています。色々と難しいですが。念のため、知恵袋あたりで寒いのを気にする人が出没する職業は論外。
こちら
http://q.hatena.ne.jp/1470299480
はネタにマジレスしましたが、果たして公務員が考えなくなり私人は考えるかどうかは疑問です。
それから、「車を運転する際にどちら側を通るか」は考えても仕方がありません。それは決められたとおりにしないと危険ですから、そのとおりにしなければなりません。「たとえ」それが独裁者が決めたものであろうと侵略国が決めたものであろうと、革命や独立の後においても維持しないと混乱を招きます。
画一化されて困る側はむしろ考えますよ。上の例だと室温20℃に画一化されて困る側が、室温13℃で何の問題もないことの正当性を主張するために。そして転職先を探すために。
「こうして、人にはこころがあることを知ることも大事ですし、理由も考えることはどんなときも大切なのだということも合せて、伝えていって欲しいのです。そうすれば応用ができるように…、ならないとしても、少しはマシにならないでしょうか…。」
うんまあ、いいことをおっしゃっていますが。ちょっと私の話も聞いてもらっていいですか、長いですが。
ここでいう「こころ」は気分、感情だとおもいます。人間は気分や感情や意志をもっています。
これは計算ではなく、今までの人生と個性から総合的に行う判断です。
この判断は、非常に複雑です。
Siriのような人工知能にこころをおしえるのは至難の業です。いままでなされた人間の応答を真似してみせることはできますがこころを持ってみろといっても無理でしょう。
人間の子供も自分の感情をつかまえることができず、「どうしてそんなふうに思ったの?」といわれても、
「思ったから」としか答えられないことが多いです。
それだけ感情やこころとは面倒なものなのです。
自分の感情をなんとか他人に(怒られないように)表現したり説明するのさえ20年くらいかかる人間が、さらに他人のこころを思いやるなんて難事を達成できるのでしょうか?
18歳まで学校で言い聞かされただけでは全然、不十分なのです。
自分のやりたいことはなにかを考え続け、なるだけできるようにやってみて、社会で金をもらったり、壁にぶつかってみるまでは他人の思惑などは目に入りません。
おとなは思いやりがある人が多そうです。
おとなとは不惑の40歳、ダブル成人式が一つの成長の目安かなとおもいます。
40歳までいっていれば身近な他人に目配りくらいはできるようになることが多い。
それでも、内面では菩薩になってるわけではなくて、イライラも激怒もしますが「せめて自分の悪感情を他人に対してはごまかす=感情を全く持っていないかのように、なるだけ公平に事務的に行動している」だけです。
それさえできない、社会に適合しづらい自分をかかえて困っているおとなもいます。
痛み、怒りや悲しみ、憎しみという悪感情を無理に消してしまったらどうなるか。
不可能ではありません、そういうふうになる毒薬も事故や病気もあります。
でも、これも困るのです。
人は他人になにかされたら怒る、悲しむ、やり返す手段を調べるなどの悪感情を通して自尊心を育てます。
ちゃんと怒った経験がないと、人に寛容に振る舞うことさえできないのが人間。
面倒な生き物です。
宗教は「悪いことをいわないようにしよう、がんばればできる、みんなで助けあおう」といいます。
それだけではなく、「神は無条件であなたのことを愛しているのだから」と自尊心を与えもします。
それは一つの完成された洗脳の様式であるといえます。地域によっては結構、成功率が高かったから、なんとか2000年も続いてきたわけです。
今は、学校でも、若い人は悪感情を「持つな」とおしえられます。
「くりかえし言い聞かせ」もすでにされているでしょう。
でも学校は宗教にくらべて非常に歴史が浅いです。
しかも「なるべくやられない・やられたらやりかえす」ための武器ともなる知識を
先に与えるよう特化してしまっています。(ここもですが)
「○○をしらないと社会に出て損をするぞ」と。
こうすると、若い人に自尊心を持たせることについてはほぼ9割、失敗します。
「悪い感情を他人に向けるな」とか
「先生はおまえ(たち)を愛しているぞ」もなかなか言えません。
それで、若い人は道徳の時間などに「他人を憎むな」「思いやれ」と
口が酸っぱくなるほど言い聞かされてもなかなかその本当の意味がわかりません。
自尊心がない、嫌われていると思い込む、卑屈な若い人は、
本音では他人に構うどころではないのです。
(ネットには、日本という地理的・血統的な選別によって、病的なものでもいいから自尊心を得ようとする若い人の吹き溜まりもあります。話が余計長くなるからやめておきます。)
自尊心がない人に他人を思いやれ、考えろといっても無理です。
自尊心がない人は、自分をもてあまし、他人のことは二の次です。
もし他人に迷惑をかけて怒られたらその時に謝るしかないなあ、としか思ってません。
本当の意味での思いやりは持てないです。
(だから保護者が必要なのです)
成人になってから(無料会員登録をして)読んで欲しいものがあります。
[R-18] 【漫画】「女が女とあれこれできるお店へ行った話 プロローグ」漫画/永田カビ [pixiv]
高いお金を払ってでも「お母さん」みたいな女の人に抱きしめてほしかったので、
エッチなことをするための店にいって、
そこにいる女の人と裸で抱き合ってみようとした。
けれど結局あまりうまくできなかった。どうして自分はこうなんだろう。
という疑問からはじまっていろいろ掘り下げていく
28歳の女性の実録漫画です。
(シリーズ物で、本として出版もされましたので、アニメイトなどにいくと売っていますが、
タイトルはここには書きません。続きも私はネットで本人が公表されたときに読みました)
これを読むと、こんなに絵がかける技術のある人で、他に大きな欠点があるわけでもなさそうなのに、
自尊心を持つのが非常に難しいのだということが身にしみるようにわかります。
お父さん、お母さんがはっきりと虐待したわけではないみたいです。
ちょっと口うるさい?程度の親に見えます。
金持ちではないですが、貧乏でもないお宅で育った、ごく普通の女性だと思います。
この本を読むとなんだか泣きそうになります。
会ってみるとまた違う感想をもつのかもしれませんが。
この人に何かうまく励まし、一発で自尊心を与え、別人のように変身させることのできる言葉は、
今の私でさえ、まだ思いつかないです。
できるとすれば親か、良くも悪くもしつこくその人の悩みをうけとめようとする宗教だけでしょう。
自尊心のもてない状況にいる人に「もっと世間のことも考えなよ」などといっても全く通じない。
一方、信者に自尊心をもたせるのに成功した宗教団体は、政党のオーナーになって「世間の問題」を積極的に解決しようとしている。
だからといって自尊心をもつために何か(たとえば入信)を全員に強制しても全く意味は無いですよね。
せめて個性や孤独をもてあます無宗教の人も、その人だけの「宝物」を見つけて、自尊心をもてるようになるといいと願うばかりです。
画一は表面的になりがちなのが問題なんでしょうね?
人の感情となるとおっしゃるとおり深いですし、どれとどれを教えるのがいいのか私には分からないですけど、謝る理由については、あちこちでこれを知らないために、つまらないことで人間関係に支障がある場面があるので、画一的に教えておいてほしいと思います。人によっては70になっても80になっても分からないままです。^^;
人にも感情があるということと、論理的に考えることを教えるのは大事だと思います。どこかに、logical thinking とかいうクラスを見かけたんですけど、どういうものなのかちょっと気になります。7歳くらいなら、もしわたしが○○ちゃんだったら、あのお家で、あの居間で、あのおばさんや弟の○○君も一緒に座っていて、などと想像を巡らしてみるとか、そんなところから入っていくといいんじゃないかと思います(私がそうだったというだけの話です。ただの勘違いだったかもしれませんが。笑)。
自尊心のない人に、やたらペコペコ「すみません」「申し訳ありません」と謝られても口先だけ。
本当に謝られた気はしないですよ。「話にならん、責任者を出せ。どうせまた同じ状況で同じことを何度でもやる気だろう。だがそれは違法だぞ」といって下げた頭の上をスルーし、本当に話のできる人(保護者、教師、上司)と話をするだけです。
責任をもつ=自尊心がある人で、自他から目をそらさずにしっかりお話ができてこそ、口先の謝罪から先にすすめます。
7歳児でも17歳児でも、そんなことは達成できません。まず自分のことに専念するのが大事な時期ですから必ず保護者が出て話をします。
もちろん70でも80でも、自尊心の誤った使い方をする人だっていますからどちらもどちらですが。怒りが世の中を変える場面も多々ありますし、その怒りは合法と非合法の区別がわかりにくいですが、個人にとってはまず自尊心があるものかないかが問題です。
https://comic.pixiv.net/works/2308 続きはR18ではないのでどうぞ。ここだけ読んでもよくわかるかもしれません。
今、自尊心とプライドに違いがあると読んだところで、まだよく把握してませんけど、プライドが高いと自尊心が低い傾向にあるそうですね?親からの期待が高過ぎて、自分自身ではない仮面を身に付けて育ってしまった人たちということですね?
謝罪する理由を教われなかったのは、教える側も知らなかったからだと思います。あるいは、学校ではそれは家庭で済ませている前提があったのか、誰も教えない抜け落ち状態になってきたんじゃないでしょうか?
どの学科も世の中に分かっている必要知識を教えるわけで、「相手の気持ちをなだめるため」という謝る理由も理路整然と教えてもらえるなら、たとえプライドが高過ぎて自分の過ちを認めたくない人は変わりないとしても、世の中全体が、少し上向きに変わると思います。
「心の教育」は国語や道徳の授業でカバーされていると思いますけど、なにせ生徒は気づく間もなく「受け身」の立場ですから、直接、直に、結びつけて教わってないと、「ごめんなさい」と「人の感情」を「ああ、なるほど」と結びつけられるには、結びつけて教わらないとなかなか難しいのだと思います。
万一、未成年など若い人がぺこぺこ謝ってくれる場面があれば、もうそれでいいと普通思うと思いますし、お店などで権限が足りなくてお客様に納得してもらえないようなら、40代でも50代でも上の人に出てきてもらうことになりますよね?
「万一、未成年など若い人がぺこぺこ謝ってくれる場面があれば、もうそれでいいと普通思うと思いますし、お店などで権限が足りなくてお客様に納得してもらえないようなら、40代でも50代でも上の人に出てきてもらうことになりますよね?」
そうです。でもそれは、まず年若くても本人を出して謝らせれば客の気が済むだろうということではないですよね。社会って未成年者がどうしようとなにかがかわるもんではないんです。
たとえばレストランで頭上から熱いコーヒーをぶっかけられたとします。店のシステムをみてるとどうやらお盆のサイズが通路と合っていないから角のあたりの席でよくひっかけるらしい。未成年者がでてきてペコるより、また経営者がやけど治療代を口止め料こみで多めにつつんでくれるよりも、先にやってほしいことがあるわけです。通路とお盆のサイズ、見直したら!? 角には危ないから席をつくらないようにしろよ!!なんで経営がそれに気づかないの!店員だっていわれるままに運んでるだけなのはしってる!法律というか社会のことも勉強していれば、このこぼした店員に罰則としてやけど代を払わせる経営者は違法だということもわかります。未成年者の監督義務はすべて大人にあります。
謝罪にはまず謝罪すべき状況「あっ、この客怒ってる」への気付きが必要ですが、そこで「怒り→口先謝罪」だけをしつこく教えこんでおわるのが学歴社会になりがちです。どうしてかというと、うまれつき発達障害を持つなどで「怒りの気付き」がどうやってもできない人もいるのです。そういう人もちゃんと人並みに義務教育や高校教育を受けます。「気づき」ができずそもそも接客向きでない人間もいるんです(けど研究開発としては非常に有能な人もいるから社会での使い方次第です)。画一教育で「おまえは相手の気持ちへの気付きがないので落第。」というわけにいきません、いつまでたっても社会に出せなくなります。
一方で目上の家族先生の怒りまでは気づくけど年下の怒りは放置する人とか、口先謝罪で免罪符にするなどで「気づかない」で大学生就職と進む子供も多い。気づきがあるだけ、さっきの子よりはまだ有能なほうですが、何しろ自分でお金を稼いだ経験がない。高度なシステムである民法(損害賠償)も労働法も商法も法学部以外の子は習わない。
となるとやはり適切なお詫びのしかたも普通は理解できないとおもいます。
学生とか、学生がおわっても職につかずに家庭に入った人には、しょうがないから「お行儀として」最低レベルの謝罪しか要求しないことにしています。保護者・経営者などがかわりに謝ることで補完します。
大人になって有効な謝罪ができる人って人それぞれもっている最大の社会経験をふりしぼって考えてます。たとえばその職場ではこういうケースでこうやってきた、という代々の上司口伝えでも働きながらみんなで考えているのでかなり有効な謝罪になります。(その口伝が有効でなければその会社が潰れるだけ)
「謝罪」まではうまくできないが「行儀」「手当て」だけはうまくて、接客に向いている未成年もたまにはいますが、それは学校で習ったからではなく素質とか、ご家庭で厳しくしつけられたのでしょう。逆に、親でも子供の監督責任や謝罪代行をひきうけられないダメな親も大勢います(モンスターペアレント)。
結局謝罪は、向き不向き、素質がかかわるので本当にそれぞれです。謝罪と感謝(まとめて思いやりといってもいいかな)は、長い人生でもっとも難しい課題です。じいさんばあさんでも迷います(政治家が日本の戦争責任を謝罪)。
「プライドが高いと自尊心が低い傾向にあるそうですね?親からの期待が高過ぎて、自分自身ではない仮面を身に付けて育ってしまった人たちということですね?」
そうです。子供のうちは「親」「学校」の仮面をつけているのが普通ですが、社会人になると自分の名刺をもちますよね。その名刺を見知らぬ人にも堂々と差し出せる力が「自尊心」です。山田太郎は謝るが、それは誰に命令されたからでもなく、山田太郎自身がよく考えて判断してやっぱり謝罪するべきだとおもったからです。という前提であれば妙に卑屈にも尊大にもならずに真正面からトラブルと向き合えるでしょう。
「たとえプライドが高過ぎて自分の過ちを認めたくない人は変わりないとしても、世の中全体が、少し上向きに・・」
そうですね。接客アルバイトだけでも一度働いてみると、そこで接客の一環として謝罪も教育されることが多いし、決定的に不向きな人はわかります(トラブルを起こしてしまう子はやっぱりバイトこなくていいよってなる)。学校以外の世の中に出ないでそのまま家庭にひきこもる人が無意識にプライドが高どまりするのが問題です。(そのためには若い人全員に一度は何らかの職をあたえてあげたいのですが話がずれたのでこれはここまで。)
「謝罪する理由を教われなかったのは、教える側も知らなかったからだと思います。あるいは、学校ではそれは家庭で済ませている前提があったのか、誰も教えない抜け落ち状態になってきたんじゃないでしょうか?」
学校は受験競争に勝ち抜くことが善という偏差値市場にのせられています。そういう場所で思いやりを教えようとしても子供がダブルスタンダード(2つの基準をつかいわける)になるだけです。校長先生と生徒指導教諭の前ではお行儀よく、しかし受験問題の解き方がヘタな先生にはバカにしたり乱暴な口をきくなどよくあります。「人より頑張って成績よくなれ」「人を思いやれ」2種類の命令を内部で統合できないので最初のだけを守るくらいしかできません。
先生は思いやりある人がおおいし、生徒にもなるべく人を思いやってほしいと個人でおもっているとは思いますが、授業は文科省の教育指導要領に従わなければならないので限度があります。どちらかというと国語・道徳より社会の教育がかかわりあります。
今はどうか知りませんが、少し昔の先生は「謝れ」「謝ったんだから許せ」という仲介の仕方をした頃があったんですね。それで親だかどこからか、「大人が子供のけんかに口出すな」と言われるようになりました。
「謝れ」「謝ったんだから許せ」というやり方が、人の感情を無視していてむちゃくちゃなんですね。
なんでも、分かってる人が教えるのが早道です。
人には自分だけでなく相手にも感情があるということ、人のことなんだから、考えてみるということをせずに分かるはずがなくて、ちょっと立ち止まって考えてみるかどうかに過ぎないんですけど、それを子供の時に教わっていれば自然とできるようになるのですが、子供の頃に親から教わるという一番、理想的な形で教わることができないと、その後、なかなか教わるチャンスが、今の世の中、ないわけですね。幼稚園や小学校で、先生から画一的に教われることになったら、世の中、かなり改善するように思います。
親からの期待が高過ぎて自尊心を失ってしまったような人でしたら、おそらく優等生のはずですから、怒られた経験がないまま育っている可能性もあります。それで成長してから何か間違いをしてしまったときに、どうしたらいいのか分からない、ということもあると思いますよ。優等生なら、たとえ最初は口先だけだとしても、教えてもらえさえすれば、一先に努力するでしょう。
「謝れ」「謝ったんだから許せ」という教育のおかげで、この認識がない人が増えてしまったようです。節操、良識のある人でも、謝る理由となるとなかなか説明できないです。ほとんどまるで「謝ればいい」ことになってしまっています。思えば、「謝れ」「謝ったんだから許せ」というやり方より、もっと以前、確か、相手の気持ちがなだめられなければ謝ったことにならない、と私は聞いていたようにうっすら記憶がよみがえってきます。
なかには小さいうちではすぐには分からない子もいるかもしれませんが、体罰や精神的虐待に及ぶようであってはならないと思いますが、よくないことはよくないとし続けないと、甘やかしてそれでいいことにしてしまうのは、教えるほうが音を上げて先に折れてしまうことですよね。
「謝れ」「謝ったんだから許せ」という教育のおかげで、この認識がない人が増えてしまった という部分には非常に同意しますが、そこは他人の痛みへの認識の第一歩「何か謝らなければいけないような理由が自分にはないが、他人の裡にはあるらしい」という地点で、省略するわけにもいかないです。その先、他人の痛みを完全に避けてあるけるようになるまでは、40の不惑までに歩ききれないような非常に複雑な苦難の道です。どこでだれに教わるかは人次第で、20そこそこの教師にだって教えられるものではありません。仏様がいた世の中ならまだ教えやすかったのでしょうけれど。
さまざまな方面からの情報提供、問題提起、ご意見等々、ありがとうございます。じっくり時間をかけて消化していきたいと思います。
No.6さんのリンクしてくださった、海外ブログの日本語訳の記事(http://karapaia.livedoor.biz/archives/52166059.html)が明解でした。従順さも関連キーワードですね。この記事はかなりあおってますけど…同調バイアスについての2件も勉強になりました。災害時の心理は怖いですね。警報が鳴っても人が動かないのは、パニックになってはいけないという前知識があるせいもあると思うんですけど、ホンモノの時には確かに私もただ動けなくなるほうのような気がします。怖いですね。
画一は体制の弱点と捉えて、「だから抵抗する」ではなくて、互いに補い合って協力し合う気持ちで向き合っていたいと思いました。
多数派の思考停止に、画一体制のせいの場合と、同調バイアスの場合があって、どちらの場合も、考えなくなってしまうのは自然な成り行きですね。体制側としても故意にやってるわけじゃなくて、不可抗力ですよね。そこで、思考を回復して、問題点や場合によっては悪政を見抜く力が求められますね。
という意味で工業製品の画一性を説明する人も存在するようですが、
それが専門家の議論かどうかとなるとちょっと疑問あり。
工業製品に対する政府基準というのは「規格」であって画一性とはちょっと違うかも。
マジョリティが思考停止するという言説もありましたが、
これも専門家の一致した見解かどうかは不明です。
思考停止の一例として原発の安全神話なんていうのもありました。
確かにメディアの画一的な報道によって思考停止した例と言えるのかもしれません。
そうやって世界制覇を狙った人も何人かいたが、結果は皆さんご存じの通り。
宗教は昔から神の王国を作ろうと努力し続けているが、支配されるのが嫌な人の方が普通だから戦争の原因にしかなっていない。
そんなこんなで複雑系が支持されるのは世界の思想の潮流だと思います。
言い換えれば自分とは違う価値観をお互いに認め合う社会、寛容な社会ですね。
まあ、絶対に許しちゃいけない相手も存在しますけどね。
https://www.youtube.com/watch?v=yYVHMnNNX8o
empathy 感情移入、共感