全くもって、考えが纏まらないので数年おきに質問させていただいておりますが、
自我、自意識って感じのものは実在するんでしょうか?
多世界解釈とか抜きにして、時間軸が一本で分岐せず、一方向にしか進まないのであれば、オカルト的な考えを採り入れない限り、自由意思なんて存在しえない。(決定論)
どうお考えですか?
可能な限り、科学的な回答求めます。
なお、使用した用語は適当です。
リベットの実験 が、人間の思考でさえ決定論的である証拠(の一つ)とされています。
そうだとすると、人間が自意識と感じている物は何なのかと言うと、脳活動の随伴現象、脳の活動を、後追いで感じさせられているだけ、 と言う事になります。
全ての出来事を予言できるのかという問題で、
誰かが石を蹴飛ばすか蹴飛ばさないか、または拾うかどうかは
予知できないんじゃないかと思います。
石のそばにいる人が、何を考えているかは、
データで予想は出来ないので、
自由意志はあると思います。
ね、アインシュタインさん。神はサイコロを振らないって言いながら、あなたが受賞したノーベル賞は、確率論に基づいているじゃないですか。測定できる観測装置があれば、決定論になるところを、環境に影響を与えないセンサが無いがために、「不逞な部分」を確率で表現せざるを得ない。でしょう?
予想するための法則を手に入れたところで予想できないのと、完全に予想するための法則を手に入れていない(あるいは手にすることはできない≠法則がない)のは異なります。
後者なのではないでしょうか? というのが私の問いなのです。
アインシュタインさんの、神はサイコロを……が覆されたのはなんとなく知ってます。(何回読んでも理解が追いつかない部分はあれど)
確率でしか論じれないという量子とかのふるまいですが、それこそ、影響を与えない精度の高いセンサがあるとしたら、人間にも決定論だと理解できてしまうのではないか? ということなのです。
サイコロを振ってるのは誰なのかはともかくとして、その目を決めているのは?
電子雲と表現されている電子の確率的なふるまいが、化学反応の進行を決めているので、この電子の振る舞い(実際に電子はどのようなもので、どのように振舞っているのかさえ不明)をだれかが操っているのであれば、そこには「サムシンググレート」か「オカルト的意識」というものがあるのかもしれません。