KBC|九州朝日放送
KBCテレビ「ドォーモ」で放送した時には、確か、はっきりと回答は出ていなかったと思います。
明治以後、または戦後、教育制度が改まった時に誰かがはじめたと言うことだったと思いますが、それが誰なのかははっきりわかっていなかったと思います。
尚、番組を見た後気になって、戦中生まれ、戦後に小学校に入学した福岡育ちの私の親に聞いたところ、「ヤー!」と言っていたとのことですので、戦後にはごく自然に疑いも無く言っていたようです。
そういうことからも、かなり古くから(少なくとも戦後からは)そういう教育をしていたということになります。
回答になっていませんので、回答オープン分のポイントはのっかりでおかえししておきますね。
海軍大佐の『堀内豊秋』氏だったと思います。
名称も、海軍体操→徒手体操→団体器械体操→男子新体操 と変遷しているようです。
男子新体操の原点なのはわかりましたが、質問してることの回答にはなっていませんが・・・
裏づけはなかったですか?
http://www.hatena.ne.jp/1087460673
福岡県の情報で、体育の授業や運動会のときなどに、小中学生は「ヤー!」という掛け声を言うと聞きました。先月(?)のKBC『ドォーモ』でこの現象を特集していたらしい.. - 人力検索はてな
説明が足りなくてすみませんでした。
『日独伊三国同盟結成時にドイツの教育理念の影響を受けたものである!という説もあるそうです。』 と書き込んでいる方がいらっしゃいましたが、正にその通りです。
『海軍体操』や『徒手体操』が世間一般に広まっていたのには、当時の教育制度や社会情勢に大変影響があります。『ドイツ体操』は、健康で丈夫な国民を作る為に、徒手体操は、当時研究者の間で流行であった『デンマーク体操』(今で言うストレッチ)を元にしたもので、東海大学の松前総長も好んで実施していたようです。
徒手体操で大事な事は、空手などでは『型』に相当する、規定の体操を順に行うのですが、その節々で運動の山となるポイントがあり、雰囲気を盛り上げると共に身体の緊張を集中させ、身体の末梢まで神経を使い切るという必要があったのです。現代では、ラジオ体操などの様に解り易い曲が付いている物が殆どですが、何時でも何処でも簡単に音響機器が使えなかった当時の社会情勢を考えると、徒手体操の時、教育として『声を出す』と教えたのは、当然の成り行きだと考えられます。
尚、福岡県だけ…という限定条件は、残念ながら解りませんが、戦後の県行政にはその地方特有の「しきたり」というか「独自性」の様な物があり、他県民にはなかなか理解出来ない物も多々存在するようです。
なるほど。体操での掛け声は納得です。
でもなぜ、体操座りのときの掛け声に未だに「ヤー」が使われているのでしょうか。これはほんとにナゾだらけです。
http://www.kbc.co.jp/tv/duomo/
ドォーモ|九州朝日放送
URLはダミーです。
補足込みの回答です。
福岡県では体育の授業で体操座りから立つときに必ず「ヤー!」という声をあげます。
地域によっては座る時も言っていたのですが、大体、県全域で共通しているのは[座る→立つ]の時に「ヤー!」です。
友人・知人に調査した結果もそうで、生まれも育ちも福岡県内で、福岡県内の小学校に在学していた人の殆どが言っています。下関の小学校出身で小倉の中学校に転校してきた友人には言った覚えがないとのことでした。
鹿児島や大分出身で、のちに福岡に移り住み、結婚し、子供が生まれた場合、親は「ヤー!」と言ったことはないのに、子供は「ヤー!」というように育ちます。
体育座りから立ち上がるときの掛け声ですので、ドイツの教育理念に起因する体操での掛け声とは微妙に事情が違うような気がします。
(でも「ヤー」といえば、ドイツでは「はい」なんですよね。)
さて、私も番組を見たのですが、複数紹介された説の一つは明治以降の教育関係者の方が広めたような話ですが、これも決定打がなかったと思います。
(他の説については覚えていません。)
当時のことですので、文献もとくには残っていないようでした。
(その頃の方ですので、もうご存命ではないのかもしれません。)
ご丁寧な回答、どうもありがとうございます。
大変勉強になりました。
これを追求するのは厳しいかもしれませんね。
「誰か」という問いに対して直接的には答えられませんが、日本全国で戦時中は剣道(ひょっとすると剣術)の心得のある軍人さんが軍事教練をやっていましたが、
小倉でも同じような事をやっているのにもかかわらず、福岡市ということであれば、ひょっとすると福岡県立の高校が出どころかも知れません。
「ヤー!」という掛け声が教師の号令にしたがってなされる事から、
剣術では攻めではない、受け手のほうが使う流派にゆかりがあるかもしれません。
なぎなたに関してはまったくしりませんので、私の推測は見当違いかも知れません。
ちなみに、福岡に伝わっている新陰流(漢字は尾張や江戸の柳生とは別かもしれません)は、薩摩から伝わっており、幕末の殿様は薩摩からの養子ですが、直接的に薩摩とはご質問の件とは無関係だと思います。
お役に立てず申しわけありません。
ありがとうございます。
地方のナゾっておもしろいのでついつい知りたくなってしまいます。