※注 他人を批判するときは、主張そのものや「その人」を攻撃するのではなくて、「その主張」の理由、前提などを攻撃してください。議論の基本です。
問題提起した人が、寄せられた意見に耳を貸さず、自分の言い分だけ
繰りかえすと、もはや議論ではありませんね。zhengyi さんが、議論を
楽しみたいなら、アンカーマンでなく、チェアマンであるべきですね。
↓(つづきは、こちらへどうぞ)
http://q.hatena.ne.jp/1157020146/39250/#i39250
Never return to beginning !(Ⅱ)
社会が信頼で構成されているからです。殺人を認めると玄関のチャイムが鳴って出る事や、外に出る事が命がけになり経済活動が行えない。
宗教的戒律は、神の意志「汝、殺すなかれ」を預言者が伝えるだけで、
なぜ殺してはいけないかという理由は述べていません。
刑法では、量刑を示すことによって、説明に代えているのです。
もちろん、zhengyi さんのように「その理由を論じたい人」もいるで
しょうが、個々の法廷で論じることはできないでしょう。
原告となり、ある刑法を憲法違反として、訴訟することはできます。
その裁判で「殺してはならない理由」を議論しようとしても、被告側
(この場合は国家)が応じないないはずです。さもなければ、万引裁判
で毎回「盗んではならない理由」を議論すべきでしょうか。
つぎの比喩も、zhengyi さんの同意は得られないでしょうね。
数学上の点は面積がなく、線には距離が存在しません。この約束事を
(理由なしに)認めなければ、数学的議論が成立しないのです。
命題に合意がなければ、終りなき空論がつづくのではないでしょうか。
ようやく、誰が「人を殺してもよい」と云ったのか、判りかけたので。
その系譜をまとめているところです。ではまた。
殺人者には自らの行為によって引き起こされる損失よりも、得られる利益が大きいという理由づけがあるはずです。「かーっとなってやった」という例でも、自分の感情を抑えることによる損失と頭のどこかで比較しているでしょう。
殺人者が自分にとっての損失を少なくするには、
浮浪者や老人を狙う。自分の居住地から離れた場所で強盗殺人。自分の世界に閉じこもる。
お金を奪って高飛びだ。あいつを殺して私も死ぬ。
あいつのせいで…。重犯罪者は死刑。
また、戦時国家やテロリスト集団は兵士に「敵を殺しても良い理由」を信じ込ませます。そのために自分たちの兵士も隔絶された状態に囲い込み、敵にも家族や友人がいることや、敵と自分のネットワークがどこかでつながっているということを考えさせないようにします。
なんか、自分で書いてていやになってきた.
一人一人の考えは異なるので、普遍的な「人を殺してはいけない理由」はありません。ただし多くの社会で、「殺人=悪」との「同意が形成されてきた理由」は次のようなものではないかと考えます。
別ツリーにありますが、自殺がいけないとされるのも同じでしょう。「残される人間からすれば迷惑なんだよ。勝手に自殺なんかしていいと思ってんのかゴラア!」という感じでしょうか。
m(_ _)mどうもありがとうございました。
m(_ _)m
とりあえず、積極的安楽死について考えます。
積極的安楽死とは、薬物を投与するなどの積極的方法で死期を早めること。いわば医療の名の下に行われる自殺幇助ということになり、社会からの心理的抵抗は大きい。また、日本を含む多くの国では刑事犯罪として扱われる。
以下安楽死と記載されてるものは、積極的安楽死の意味です。
で、安楽死は、自殺幇助になるから違法になるのですが、安楽死を認めるには、たとえば
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
を
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。但し、○○法に定められている場合を除く
とあり、○○法では、
医師などの医療従事者が、一定の要件を満たした場合には、処罰しないと書かれることにより、一応安楽死は認められたといえるかと思います。
で、とりあえず法律が通らないことにはどうともいえないのですが、そのためには日本の社会で安楽死に関する議論がされなければなりません。
で、なぜ安楽死が日本で認められないっぽいかといえば、
「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助が一般化する可能性があると主張している。
に代表されるように、特に自殺幇助が広まりかねないと危惧されるからでしょう。
で、ここで疑問なのですが、安楽死が許容されている
* アメリカ(オレゴン州) - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
* オランダ- 2001年「安楽死法」可決。
* ベルギー- 2002年「安楽死法」可決。
* フランス- 2005年「尊厳死法」可決。
* スイス- 1942年
では、自殺幇助が広まっているのでしょうか、何かデータがあったら誰か見せてください。
たしかに、安楽死法が成立すれば、今までに比べて苦痛に耐えている人が一時的な感情により自殺する人が発生するでしょう。
で、ここからは価値判断の違いなのですが、結局は
自殺の決定は自己決定権に含まれるかの判断の違い
だと思います。
で、国民の間で自殺が自己決定権に含まれると考えられるようになるには、何が必要なのでしょうか。
ところで、この問題は普段何気なく生活しても考えることではなくて、身近な人が関わらない限りはなかなか考えないかと。
で、私が思うに、
ミリオンダラーベイビーが何かきっかけのような感じ
、がしたんです。
つまり、映画(別にミリオンダラーベイビー以外でもいいが)を見ることによって安楽死を考えるようになる人が多いかもしれんと。
いや、別に安楽死だけではなくて、戦争とかもそうだけどね。但し、映画は監督の主観が入っている部分はしょうがなし、単に議論のきっかけになれば…
もちろん、小説などの本でもいいのだけれど、
「よーし、安楽死問題を考えてみっか」と考えないように気がする。というか、テーマが重いため見る人が少ないため、社会に対する影響力が少ないと思われる。
この点、映画は娯楽性、俳優の好みなどで何百万人も見る可能性があるかと。
だから、誰かそういう映画を作ってくれないかなと考えています。ミリオンダラーベイビーはよかった。9月1日でNHKでやってたけれど、硫黄島の事件のドキュメンタリーもイーストウッドは作ってるみたいで、いいですね。もし、日本で(別に日本以外でもいいけど、とにかく日本で配給できれば)ああいう監督がいてインパクトのある監督がおり、制作費がなかったら、何億円か出したい。もちろん、私自身が安楽死は認めるべきだと、考えており、それを主張する手段としてという意味があるが。
回答ありがとうございました。
まあ、けっこう思いがちな思想ですよねが、つっこむところはあります。
第一に、健常者でも利益を生み出さないものはいます。
第二に、利益を生み出すか否かはかなり人によって違います。
とりあえず、あなたの考える利益の定義をしてください。
議論はそれからかと。
返事遅れてごめんなさい。
あなたは、
「殺していい理由、殺してはならない理由」はどちらも存在せず、これらのことは議論するべきでない、とおっしゃています。
しかし、以下の場合において、国民が殺してもいい理由を考えるときがあると考えています。
すなわち、国民投票の対象にはならないということです。
死刑の廃止のことですね。勘違いしてました、刑法199条の改正なのに、なぜ国民投票がくるかと昨日は考えていたので。
さて、刑法199条では、
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
と書かれています。
そして、刑法も法律ですので、法律改正の手続は憲法59条に定められているとおりすれば、199条もたとえば、以下のように
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。但し、○○法の第○条から第○条に規定されている場合はこの限りではない
と、規定され、○○法では、特殊な病気に感染したものとか、強盗をやむを得ず殺したとか書かれているとします。
あるいは、正当防衛の部分が36条の2みたいに枝がついて、
急迫不正の侵害に対して自己の生命を防衛するために行為は、罰しない
のように
生命を防衛する場合、 or 「やむを得ずにした行為」の必要性と相当性の部分が欠ける改正がされたとします。
このような改正を考える過程において、
殺していい理由を考えることになる。あるいは逆に殺してはならない理由を考えること
になると思います。
上の例でいえば、特殊な病気感染者、強盗を殺してもいい理由を考えますよね。
●
ところで死刑廃止のときも、「殺していい理由、殺してはならない理由」を考えることになります
憲法には、残虐な刑罰はこれを禁止するとか、書かれているだけなので、新たに
死刑廃止法
みたいなのを作れば、日本において死刑が廃止されることになります。
こちらも死刑廃止法の創設を考えるときに、犯罪者(えん罪を含む)を殺す理由あるいは、殺さない理由を考えることになります。
●まとめ
殺していい理由、殺してはならない理由」はどちらも存在せず、これらのことは議論するべきでない
とあなたは言っていますが、存在すると考えている人もいるし、議論の必要も発生すると考えられるので、以上の反論からあなたの主張は誤りであると考えます。
身近な存在で例えると、子を持つ親です。愛する子供が死を選ぶ時、止めない親はいません。特に母親はそうでしょう。愛する子供が生きてくれるならば、自分に可能なことは何でもしてくれるでしょう。自らの存在が続くまで…。
■zhengyi様、私の極論の哲学へのご理解、感謝致します。
それに、犯人がわかるというのは、警察が逮捕したからといって100%正しいわけじゃないので難しいでしょう。しかし、多分犯人は見ればわかると思います。いや、話してみないとわからないな。
もちろん、間違った危険な考え方なのは理解してます…
回答してくださったかたには、失礼かと思いました。ごめんなさい
私の中で、真剣に考えるとは、異性とつきあい始めたとき、相手のことを思うように、一日中、心のどこかで考えるみたいな感覚です。
もちろん、他人には「真剣に考えてよ」などとはいいますが、それは上の定義とは違って、一時的に考えろという意味であり、毎日考えろという意味ではありません。
●
さて、実際に人を殺すときは、理由は考えないと思います。まず結論ありきでしょう。
大事な人が殺されたら、勝手に頭の中でそういう感覚になると思います。多分、一日中相手をどのように殺すかを考える毎日になりそうです。whyではなくてhowの世界ですね。
それで、殺人方法などが決まったら、あとは生存中やり残したことをやり終え、その後多分私は相手を殺すでしょう。
その後、青酸カリなどで自殺をするかと思います。なぜなら、そのまま自分が生きていても大事な人を殺され、自分も犯人を殺しているので、一生幸せになれない気がするからです。
もちろん、自分の子どもがいれば、殺人と自殺はしないかもしれません。
それに、「犯人を殺す」と決めた場合、誰にも相談しないでしょう。これは元々私自身があまり人に相談するタイプじゃないからです。
ところで、自分でも思うのですが、こういう考えをする自分は不幸だなと感じます。多分、歳をとり、色々な本を読んだりしても変わらないと思います。
永井均さんも書いていましたが(『〈子ども〉のための哲学』とかで)、本を読まなくても、子どもでも、哲学は出来ますよ。哲学者なんていっぱいいますから、哲学専攻の学生でもない限り、好みの合う人のを読めばいいと思います(ちなみに私は池田さんは好みではありません)。
「真剣に疑問に思っているわけではありません」というのは、まぁそうなんだろうなぁとは思いますが(インターネット上ですしね)、真剣に答えようとしている回答者が居ることもお忘れなく…。ちょっと淋しく感じました。
同じ種族のものが同じ種族を殺して、子孫を減らすようなことをすることは生物の生きる流れとしておかしいことだからだ。
殺されて嬉しい人間も少なからずいます。
彼らの場合は一体どうなるのでしょう。
>人を殺して悪いと言う人は、自分が殺されたくないから
>自分が殺されたくないから、人を殺していけないと、人間全員で決めたのだ。
では、人を殺して良いと言う人の場合はどうなるんですか?
人間全員で決められたのはいつ、誰がですか?もしそれが真実ならば
「人間全員」というよりも「自分が殺されたくない」と思っている集団だけで決めたのでは?
>死があるから生がある
>死がなければ生もない
>死と生があるからこの世は生まれた
そもそも生が存在しなければ死も存在しないのでは?
どちらにしろ、"だから"死と生が同じ価値とはいえない 何か決定的な証拠はありますか?
生と死の重さや価値を計る方法はありますか。
そもそももしも死と生が同じ価値であったとしても、殺しをしてはいけないという結論に結びつかない
tosyosisyo992pt さんが(背後から肩を叩くように)本論と直接関係
のない文献を持ちだしたので、質問者も閲覧者も混乱しています。
以下「なぜ、誰が、いつ、どこで、何を、どのように云ったか」
池田 晶子は、専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって
「哲学するとはどういうことか」を語っているそうです。
── 《事象そのものへ! 1991‥‥ 法蔵館》連載
つまり「学問は、研究室や図書館に在るのではなく、日常の中に在る」
という表現は、とても便利なので、わたしも何度か転用しましたが、か
と云ってなにか目あたらしい哲学が出現するとは期待できません。
♀池田 晶子 哲学 1960‥‥ 東京 /慶應義塾大学文学部哲学科卒業。
つぎの三部作は、14歳&41歳を対比した、数合わせのような題名
なので、手にとる気がしません。⇒「すこしづつ判りはじめたこと」
── 《14歳からの哲学 ~ 考えるための教科書 2003‥‥ トランスビュー》
── 《41歳からの哲学 2004‥‥ 新潮社》
── 《勝っても負けても 41歳からの哲学 2005‥‥ 新潮社》
現実問題としては、人を殺して良いか悪いかは人間が決めるものだ。
人を殺していいか悪いかは、ルールで決まっている。しかしそのルールは、人類の心の奥に潜んでいる。
人を殺して悪いと言う人は、自分が殺されたくないから
自分が殺されたくないから、人を殺していけないと、人間全員で決めたのだ。
ただそれだけ
神から見れば、死も生も同じ価値
死があるから生がある
死がなければ生もない
死と生があるからこの世は生まれた
そして
何かの死の上に他の生が築かれいる現状
自分がされて嫌な事は人にするな!
殺されて嬉しい人間はいない
まあいずれにせよ
人を殺して良いか悪いかは人間が決めていることだから
議論しても決着はつき難いだろうと思う
そう言われればそうかもしれないですね。やはり人間関係にしろ何にしろ信頼は大切ですね。その上ですべてがなりたっていますもんね。大抵は。