http://d.hatena.ne.jp/blue-sea/
※質問終了後も日記内へのコメント承ります。気軽にご参加いただければ幸いです。
人が人を裁く限り矛盾は存在します。
昔とは現代は刑量が軽くなりました。
江戸時代の武士は約束を裏切るだけで切腹です。
人の人情は人を良くも悪くもします。
犯罪を犯した犯罪者を裁き反省を促す刑量は人が決めるのです。
極刑か執行猶予かを決めるのも人が決めるのです。
ですからそこには常に人情と感情が渦巻き矛盾が発生するのは防止出来ない状態にあります。
人が人を裁く限り刑期の矛盾はなくなりません。
ではどうすれば良いかがこれからの課題なのです。
だいたいそのお考えでも宜しいかと思います。
①理由がない②不可抗力ではない③故意による④残虐性を帯びている・・・という要件では全く現実的基準にならないでしょうし、6歳以上、明らかな残虐性なら児童でも死刑、なども論外ですね。おおよそ、質問者さんが友人とされた議論は大きな意味での話なのでしょうから、このあたり、話に出ていた具体的基準については、あまり重視せず、少し気づいた点だけ、ちょっとだけ、ご回答させて頂きます。
まず、死刑を適用する範囲を拡大するといことの目的ですが、これは従前よりはてなで時々なのですが、議論されている点なのですけれども、なぜ死刑を適用する範囲を拡大するのか?、という点です。目的は何か、という点ですね。
一つは報復。もう一つは国全体としての抑止。
この2点が主に取り沙汰されていますが、そもそも死刑とはどういう行為か、という点においては、それは、言わば国家が人間を殺害する行為な訳です。
以下飽く迄も、私の独断的考えですが、この点はよく皆さんが失念されている点ではないかなと思うのですが、この「国家」とは何か、という所ですね。「国家」とは「我々日本人全体を象徴する存在」「日本社会そのもの」「日本社会の意思」というようなものでは到底無い、ということではないと考える訳です。
そもそも憲法という法律が最高位の法律なのですが、この法律は三権分立から定め、政府と国民との関係、パワーバランスを規定しています。すなわち、憲法にとっての「国家」すなわち「行政府」等というようなものは、決して「国家の意思」として信用できるようなものでは全然なくて、その辺の私人程度として、その信頼性を考えるべきであるという立場だと、私はですが、無謀にも程があるというほどに大雑把に言えばですが、そう考えています。歴史的な視点で考えれば、大政翼賛会、全体主義、秘密警察、、、とてもではないですが、政府も警察もその運用において「国民の意思を体現する存在」「社会を代表して何らかを仕切る存在」「社会から何か重要なものを本当に任されるに足る存在」でなど有り得ないということだと思います。組織は組織として一人歩きをし、組織が持続することだけを目的に利を考え、そしてどんどん独走、暴走していきます。あくまでも実際に運用を考えた時の「国家」とは、このような私的組織を指すものであると考えます。ですので、市民コントロールというか、憲法の立脚点というか、そのようなことが重要になってくると思いますね。
そのような中で、そのような「国家」に何をやらせるのか、という点を考慮しなくてはならないのではないでしょうか。現行の社会体制も現在まで実に長く持続してきましたので、私も含めて、法的インフラ(憲法を筆頭に)、行政的運用インフラ(警察その他、人を裁くということ)についても、変に信頼してしまって、どこかしら空気にようにあって当たり前のものと捉えてしまうような、変な信頼感覚があるのかもしれません。ところが、社会というマスの規模を持つ巨大なものは現に毎日運営されていてマスのトラフィックな訳です。或いは、裁判所は全国にあり、事件も全国で毎日のように起きており、果てには、未必の故意だとか、無作為が何だとか、いろんなことがあり、そのような中で法律というのは巨大な全体にとっての、インフラな訳ですよね。
そのような中で、やはり、
或いは、例えば100人の命を救うためならば、その100人は1人を無残にその手で殺害しても良いのか?、いや許される筈は無い、というような議論。
すなわち、抑止力のために、現に人間様を引き釣り出して、殺害する、というような行為は許されない。他の何でもない、未来の殺人を防止する目的で、行政組織などというような立場の者が前もって、人間様を殺害しておく(分かりやすくするため無謀に極論すればですが)行為、こういう行為は許容できない、というような議論。
或いは、憲法においてすらも信頼性を与えられていないような組織を代表者として、そもそも殺害行為などというようなものをさせることの是非はいかがか、もっと公正な立場を取らせる事が重要ではないのか、と、いうような議論。
いろんな議論が当然存在するのではないかと思います。
或いは、角度を変えてみますと、例えば、死刑の範囲を拡大したとします。そうしますとそれはインフラの変更な訳ですので、当然、質問者さんのそのご友人にも適用される訳です。15年後、そのご友人の息子さんが13歳になったとしましょうか。13歳の息子さんが生まれて初めてデートしたとしましょう。彼女と海に行きました。彼女も13歳なわけですね。初キスでもしようかと崖の方へ行きました。
両者ともまだ子供ですので、楽しい初デートの筈がふと喧嘩になってしまいました。息子さんは男の子ですので軽い気持ちで怒った気持ちを表現しようと、その13歳の娘さんを突き飛ばしてしまいましたが、そうすると娘さんは崖から転落してボロボロになって死亡してしまいましたが、息子さんは怖くなってそのまま逃亡してしまいました。結局娘さんは非常に無残な姿で発見された訳です。目撃者は1人もありませんでした。
誰がこの息子さんに殺意が無かったと立証してくれるのでしょうか。現実には殺意が無かったことを立証する方法があるのでしょうか、無いのでしょうか。どうなのでしょうか。
ただ、このような場合にも或いは「殺人事件」は適用され得る、ということは、法律というものが誰にとっても身近な、インフラだということではないでしょうか。(上例は、まったくもって非常に極めて、とんでもなくいい加減に考えた、駄目例なのですが)。ですので、質問者さんが言われるように、法律を変更するということを、社会のインフラをいじるという視点で考えることは、極めて重要なことだと考えます。
熱い回答、誠にありがとうございます。
国家という次元にまで踏み込まれるとは思いませんでした。国家というものが必ずしも国民全体の意志の集結とは言い切れず、しかも抑止力はどちらかといえば国家や行政による一方的な都合とも言い切れる部分がありますね。その国家がよりよい方向に向かう為にも、社会のインフラ(結局は国民全体が作り上げていくような基盤)は常に形を変える必要もあります。 量刑、特に極刑の適用に関して、具体的に考えなければならない事は何でしょうか。宜しければ引き続きご回答をお待ちしています。
三流大学ですが一応法学部卒です。
>>④だけでも極刑としてよい
これは文中でも指摘されてる通り、どこからが残虐かの判断が出来ませんので無理ですね。
人間の環境は1000人いれば1000通り違いますから、判例で決めるのなら結局現在のやり方と変わりません。
その人達はナイフで滅多刺しにしたから凶悪とか、そういう次元でしか考えてないのではないでしょうか?
いじめられてたとか、親から毎日小言を言われてたとか、凶悪である判断が難しい事例はいくらでもあります。
そうすると今度は「本当にいじめられていたのか。」「どれぐらいのいじめを受けていたのか。」「親から何を言われたのか。」「その言葉はそんなに辛いことなのか。」など。
凶悪であるかどうかの判断はそんなに簡単なものではありません。
>>6歳以上であれば善悪の判断もできるだろうから
少年法の年齢引き下げについては今でも議論されてることですが、6才が善悪の判断出来るかというと難しいところです。
なんせ義務教育も始まってない年齢ですからね。
幼稚園に行ってない人だっていますし、親が教えてなかったら何も知らない状態です。
ただ、私個人としては現在よりは引き下げるべきだと思っていますので、極刑かどうかはともかく刑の軽減は中学校卒業までで十分だと思います。
>>こういった例えば凶悪犯罪のようなものは、法を厳しくするだけではまだまだ足りないものがあるのではないでしょうか。
法を厳しくすることで犯罪が減るというのは決して間違ってはいませんが、極刑を増やすことで犯罪が減るというのは大間違いです。
日本では年間3万人の自殺者がいます。
つまり、「死にたい」「死んでもいい」と思ってる人は何十万人もいます。
そういう人達にとっては死刑よりも懲役刑のほうが恐ろしいのです。
確実に死刑になれるのなら、強盗殺人など凶悪犯罪を繰り返し豪遊して死刑になりたいという人もたくさんいるでしょう。
しかし、もしも死刑になれなかった場合、何年も自由を奪われ毎日毎日働かされ続けることになります。
死刑制度はあくまでも「見せ玉」だから効果があるんです。
確実に死刑になれることがわかれば、それを利用する人間も出てくるということです。
ただ、現在の懲役制度だと最大でも7~10年程度で出てこれるというのは短すぎますので、やはり今以上の長期懲役刑や終身刑を導入することが犯罪を減らすことに繋がると思います。
もちろんこれは刑の厳罰化により犯罪を減らす場合の話で、マクロ的に考えるのであれば福祉や経済など根底から直さなければいけませんが、そちらは国の金銭的な問題もありますのでなかなか思うようにはいかないですね。
長い回答、誠にありがとうございます。
確かに昨今の社会状況では、年間の自殺者数もそうですし、自殺未遂者にいたっては推定200万人とも言われるほどの本当に悲惨な状況です。極端に刑を重くしても、それを利用して殺人に走る者が逆に出てくるかもしれないですよね。
小林薫被告の死刑判決が確定しましたが、今の法体制では1人を殺害して極刑になる公算は低い。だが友人の様な制度になってしまった場合、簡単に極刑となってしまう為に、繰り返しますがそれを利用する自殺願望者が出てきてもおかしくはない。極刑にすれば犯罪は減るというのもかなり安直な考えではあります。
私も終身刑の導入を考えていた所でした。計をより刑罰化することには確かに肯定的な部分はあるのですが、だからと言って何でも規制すればいいというものでもありませんよね。 一生生きて深く償い続けて欲しいと考える被害者の遺族もいるはずです。
●日弁連より
http://www.nichibenren.or.jp/ja/committee/list/shikeimondai/01.h...
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/hr_res/2004_3.html
●「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」より
http://www.jca.apc.org/stop-shikei/news/81/6.html
●毎日新聞「奈良・女児誘拐殺人:死刑判決 小林被告、表情変えず 不満漏らす場面も」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060926dde04104...
などがご参考になるかと思いますが、まず現在の死刑の量刑基準は1983年(昭和58年)の最高裁の判例、いわゆる「永山基準」が元になっています。
これは、動機や殺害方法、前科など考慮する点はあるものの、一番大きなウェイトを締めるのは「被害者数」とし、殺害した人数によって、1人なら無期懲役、2人以上なら死刑というものです。
これにあわせ、身代金目的や保険金目的の金銭が絡む殺害である場合、量刑が重くなりやすいという通説がありますが、同じような条件でも、ある裁判では死刑、ある裁判では無期という判例もあるようですので、過去の判例を参考にすればよいと言っても、一概に一括りで語れない現状があります。
とは言え、私も被害者感情を考えると、加害者を保護する感の強い現状より、人を殺した以上、極刑に処するべきだという意見にはどちらかと言うと賛成の立場ですが、過去の誤判や冤罪、例えば前出でご紹介した日弁連のサイトにあるような1948年(昭和23年)12月29日に起きた熊本県人吉市内で起きた祷師一家殺傷事件
免田栄氏の大阪シンポ発言抜粋
2003年1月18日
昭和23年12月29日,熊本県人吉市内で起きた祈祷師一家殺傷事件は、2人の方が死去され、2人のお子さんが重傷を負われるという事件でした。その事件で私が疑われたわけでございます。全くなんの証拠もない。アリバイもあるのにアリバイを全部警察が消してしまう。1人の警察官がした事件処理は、最高裁の確定判決に類するという諺がございます。強制誘導尋問を使用して否応なしにその自白調書に拇印を押すようにするんです。一旦、拇印を押したならば、いかにそれに反論しても,そのまま最高裁まで行って確定します。
私の死刑が確定したのは昭和26年12月25日、クリスマスの当日でございましたが、私が今日あるのは、日本弁護士連合会の支援もありましたけれども、社会奉仕事業を長くやっておられた熊本の塩谷宗一郎という方が,本当に親身になって証人を捜し、証言をとって、支援していただきましたおかげです。もう亡くなられましたが、私の一生の恩師として忘れることはできません。
死刑が確定しまして、6回,再審をしまして、ようやく社会に出てきたんですけれども、その間に、死刑囚を約80人近く刑事場に見送りました。その一人ひとりの死刑囚が最後に刑場に連れられていく姿を見たんですけれども、本当に死刑判決というものに素直に従って行かれる方は少ないんです。で,私はその姿を見て、もし、自分が社会に出られたならば,死刑だけはなくしたい、死刑だけはなくしてほしいと思いました。社会に出て、私が、今でも、重い荷を負っているのは、再審で無罪にはなりましたが、いまだに一審の死刑判決は消えてないからです。まだ私は死刑囚なんです。もう一つは、無罪の判決があっても、その死刑囚が無罪になっても、釈放する条文が刑事訴訟法にないんです。それと年金の受給権がないんです。このような矛盾があるんです。
これから生涯、死刑廃止の運動を続けていきたいと思います。
というようなケースも中にはあったりしますので、もっと基準を明確にし、現法での矛盾や問題をあわせて考え、証拠不十分の場合には判決執行にも慎重であるべきという姿勢は崩さない必要があるように思います。
ご参考になれば幸いです。
非常に勉強になるご回答、誠にありがとうございます。確かに過去の判例を参考にするにも、どれを参考にするのかによって全く異なる事が考えられますよね。
また誤判による問題点までは考えつきませんでした。単に凶悪で残虐な殺人があったとしても、それを一律に極刑としてしまうと当然誤判によって一審で死刑判決を言い渡される無罪の人が増える事も考えられますね。そうした場合のために、より明確な基準や現行制度に対する問題点も慎重に考えなければいけない。
仮に一律極刑を導入した場合、無罪の人が誤判を受けた場合どうするのか。そこまで考えると、残虐性だけで例外なく決め付けてしまうだけでは難しいですね。もっと考えなければならない事があるはずです。
小林被告の事件に対する沖縄タイムズの社説も見つけました。確かにここでも永山事件に触れられていますね。これについても、もう少し調べたいと思います。
http://q.hatena.ne.jp/1148453282
http://q.hatena.ne.jp/1152462677
まずは類似質問を提示。わたしの記憶では、もっとよく似た質問があったはずなのですが、最近のはてなでは、ちょっと古くなると検索にひっかからないのです。
さて、殺人罪の量刑をご提示のようにすることには、残虐性の基準があいまいであることのほかにいくつかの問題があります。
1.そういう手合いは初めての殺人を起こす前に「検挙率も上がっており、極刑がまちうけているから犯罪は辞めよう」とは考えないので、犯罪抑止力にはならないだろう。すなわち、発生率は横ばいであろう。
2.破壊衝動は状況(悪いめぐりあわせなど)によりだれでも起こり得るものだ(教育により敷居は上げられる)。それをこらえられるように再教育して是正することで、その殺人者を育成した社会的コストを回収できるのに、なんでもすぐに極刑でつかい捨ててしまうのでは、少子化と人口減少を加速しそう。
3.人道性について国連やアムネスティなどに監視されており、あまりに平均から落ちれば某北の国のように経済制裁や内政干渉が入る。
また、利点は
1.同一人物による再犯は確実に防止できる
2.再教育しても無駄である場合には最初から再教育を放棄したのうが確実に社会的コストがお徳になる(年金もそいつの分は払わなくていいし)
3.日本独自の道徳観を世界中に示すことができる
類似質問や利点・不利点を挙げてくださり、ありがとうございます。
アムネスティという言葉は初めて耳にしました。もう少し調べてみます。
「抑止力」というものの捉え方にもよりますよね。先ほどのご回答2のaoun様(2006-10-11 11:02:16)のおっしゃるように、結局は国家の支配を握る者のための抑止力、ということも一部分考えられます。なので、「極刑にして抑止力を働かせる(極刑にしなければ抑止力が働かない)」というよりも、(そればかりでなく)「法の一層の刑罰化に当たって考えなければならない現行上の問題や代償」も議論する必要がありますよね。
社会的コストに関する見方も重要ですね。再教育の可能性を完全否定してしまうと、コストの損失以上に人権が認められなくなる部分も大きいと感じます。
追加です
*私は法律、特に刑法に詳しいわけではありません。
回答は政治よりの回答になりました。
*これは死刑廃止論の方のほうが詳しいのですが、
極刑を行うには、経済的コストのことばかりではなく、
心理的コストのことも考えなくてはなりません。
裁判所のお役人が死刑に決定したからといって、
遠くの刑務所にいる極悪犯人が
勝手にいなくなってくれるわけではないのです。
これだけモラルの高まっている世の中ですから、
極悪犯人であっても、死刑を執行する(=合法的とはいえ殺人者にさせられる)側のほうがよっぽどイヤです。
極刑を求刑した判事も同席させられます。
そのお友達に「じゃあお前は優秀な判事になって死刑を見物しにいくとして、自分の勝ち取れた判決どおりになるのがうれしいか?お金だけみればエリート役人だが。それとも刑務官になって直接に執行手続きを行うことができるか?」と聞いて見てください。
http://www.jca.apc.org/stop-shikei/epamph/dpinjapan.html
http://luxemburg.exblog.jp/4219915
http://www.tanteifile.com/diary/2005/03/29_01/index.html
仕事とはいえ、心の健康に非常に「こたえる」ものがあるそうです。
ご回答ありがとうございます。
これは衝撃的でした。よく考えてみればその通りです。裁くだけでなく死刑を執行する人間もいるわけですね。心理的コストの面では、これは測り知れないものがありますね。
「極刑」ということが、一言口にするだけでもここまで多くの犠牲や問題点を含有するものだとは思いませんでした。
ようやくみつけました。
上の二つの回答で出したかったのはこちらです
http://q.hatena.ne.jp/1140320514#a489252
結構定期的にこういう質問が出るので、
やっぱり刑事事件の量刑に不平感が
けっこうあるんだなと思います。
実際はhttp://q.hatena.ne.jp/1157548603
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/28977297.html
→http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html
(まあこれも誘導的データかもしれませんが。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00182/contents/026.htm)
警察も市民も犯罪に潔癖症的に厳しくなっているように思います。
マスコミでは他にネタがなければ
いつまでも同じネタをひっぱるし、
すこしでも不公平や制度のゆがみを
見つけると後先考えずに
今すぐどうにかしろとあおりまくりますよね。
なんか「みせしめ」とか「劇場型政治」とか、
わかりやすい方向にひっぱった結果が、
「むずかしいことはあまり考えない雰囲気にながされる人と、
だまってこわいことを考えてる人の社会」を
つくってるような感じがします。
ご回答ありがとうございます。わざわざ探していただいて本当に勉強になります。
確かに本当に物事の本質を見抜こうと、冷静に筋道立てて考えられなくなっている部分は歪めませんね。センセーショナルな部分だけを引き合いにして、今すぐ解決する事を過剰に煽るだけの「劇場型政治」では、その先の事まで考えなければならないものを放置し、結局大した効力を発揮せずに終わってしますね。 こういったマスコミの一方的な「流れ」というものからも、距離を置く姿勢というのも確かに大切です。
2回目の回答、長文失礼します。
この問題は皆さんおっしゃるように多くの問題が複雑に絡んでいますので難しい話となりますが、今回は個人的に思っている事も少し交えながら、お話しさせて頂きたいと思います。
1.量刑が重くなれば犯罪が減るのか?減らないのか?
この問題を考えるうえで、過去の犯罪とその因果関係についてよく議論となりますね。
それに補足するなら、
http://www.janjan.jp/world/0604/0604283487/1.php
世界の約半数以上が死刑を執行しておらず(これは法的に撤廃したものと事実上執行されてない国を含みます)、先進国で死刑制度が認められているのはアメリカの一部の州と日本だったかな。
そして欧州では死刑制度が撤廃されてからも、犯罪件数はそんなに変わらないという話もあったり、死刑廃止の代わりに絶対終身刑があればよいという意見もあったりしますが、死刑廃止論者の中には、絶対終身刑は死刑と同じくらい許されるべきものでもないという意見もあったり、絶対終身刑が認められるとその犯罪者をどこに収容するのか、それに対するコストをどうするのかといった問題も耳にします。
これらの点について、犯罪の性質や全体のバランスを考えながら、一つ一つ考えていかねばならないとは思いますが、私は基本的に量刑重くすることでかなりの確率で減るだろうと思っています。
例えば、昨今よく問題となっている飲酒運転のひき逃げ事故を考えてみます。
詳しくは
といったサイトでも説明されていますが、現法では逃げ得の感が強いのは誰しも認めるところでしょう。
それでは仮にですよ、基本的に
・飲酒運転(酒気帯び含む)は無期懲役、同乗者も飲酒有無に関わらず同様。
・飲酒有無に関わらずひき逃げ死亡時は死刑。ただし事故起こした時点で人命救助措置、警察へ通報すれば減刑考慮する
となっていたらどうでしょうか?
飲酒運転も減るだろうし、ひき逃げも減るし、それによって助かる命、未然に防げる事故も増えると思いませんか?
酒が強かろうが弱かろうが、飲酒運転は悪い事だというのは共通意識として持てないものでしょうか?
同じく人命救助の観点に立てば、ひき逃げは悪い事だというのは共通意識として持てないものでしょうか?
といった観点に立って考えていけば、自ずと答えは出るはずで、量刑が今より重くなって納得できない人がどれだけいるというのでしょうか?
飲むと分かっていれば車で行かなければよいだけ、飲んだら乗らなければよいだけの話だし、中途半端に血中濃度がいくらとか言うから話は分かりにくいのであって、ダメなものはダメなんだという分かりやすく明確な基準があれば、俺は酒が強いから飲んでも大丈夫とか、今の時間なら警察取り締まってないしとか、逃げた後に酔いをさましたり、帰ってから飲んだとかいう言い訳したり、はねたけど気がつかなかったといった自分の都合のよい言い訳や行動は減るだろうし、それによって不幸にも亡くなる人も間違いなく減るでしょう。
それは飲酒運転や駐車禁止など取締りが厳しい時期を見ても、皆に与える心理的影響は明らかのように思いますし、そうする事で被害者だけではなく、対岸の火事だと思っている人が加害者となる可能性も低くなると思うのです。
また、この問題に絡んで、最近、日本でもアルコール検出すればエンジンかからない車の開発
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060914k0000m020067000...
http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/wadai/archive/news/2006/09/...
といった流れがはじまっていますが、外国では既に導入されている国もあります。
私の記憶では
・息を吹き込まないとエンジンかからない
・走っている最中にアルコール摂取される事もあるため、走行中でも一定時間走れば息を吹きこまなればならない
・飲酒運転で捕まると、上記の装置は必ずつけなければならない。
そのデータは蓄積されていて、車を検査場に持ち込み、一定期間報告する義務が課せられる。
といったものであったはずです。
これはあくまで一例として書きましたが、こうした罪を犯す前に未然に防げる意識の問題と防止策、それを抑止するための法律はセットで考えなければならないのではないかと思っています。
それとは別に猟奇的殺人や、殺意を持った人間が死刑という制度があるからといって、それが未然に防げるのかという事を比較するのは、私はナンセンスだと思っています。
と言うのも逸脱した心理状態の人間は、どんな量刑であれ、罪を犯すでしょう。
それは裏を返せば、現在でも同じ事が言えると思います。
2.少年犯罪について
この点、いろんな問題はらんでいるのでこれまた難しい話ですが、少年法については
http://www.zenshiho.net/syonenhou.html
といったサイトでも説明されていますが、成人した大人は検察官、弁護士、裁判官と三者で裁判を行いますが、2001年法改正前では少年事件における刑事裁判では検察が介入される事は認められていませんでした。
つまり、これが何を意味していたかというと、少年に非があったかどうかは裁判所自身が調べ、真偽について深く掘り下げることなく過去の判例に乗っ取って裁決されてしまう危険性をはらんでおり、適正な事実認定が行なわれない問題がありました。
法改正後は、検察官が介入する事が認められましたが、これも全て行なわれているわけではありません。
この話だけで長くなりそう(既になってきた・・・)ので、これ以上の説明は割愛させていただきますが、要は加害者と被害者どっちが悪いの?どっちを守らなければならないの?って事がまず主観としてあるべきだと思っています。
3.死刑執行の問題について
この問題についても、よく議論となりますね。
記憶に新しいところでは杉浦前法相が「死刑執行しない」と発言した問題
http://www.shikoku-np.co.jp/national/main/print.aspx?id=20060923...
そしてNAPORIN さんが書かれている実際に執行する人達の心のケアの問題など。
これらの問題を考えるうえで、法的な話については、刑事訴訟法を見る必要があります。
http://www.houko.com/00/01/S23/131B.HTM#s7
見れば分かりますが、法治国家の長である法務大臣が、刑事訴訟法第475条2項に定められている判決確定の日から6ヵ月以内に行使しないという決まりがありながら、それを守らないのは明らかにおかしな事です。特に弁護士であり、法律家でもある杉浦氏なら尚更の事でしょう。
「心の問題、哲学の問題」と言うのなら、最初に法務大臣の打診を受けた際に断るべきで、そんなにポストが欲しかったのかと邪推されても仕方ないように思えます。
こういう矛盾を感じるから、政治離れがおき、子供達にも、だから大人は・・・と舐められるんです。
それとNAPORIN さんがご紹介されている死刑執行ボタンを5人で押すという話は、それがベストな方法なのかは別にして、そうしたストレスを和らげるために誰のボタンが繋がっているのか分からないように変わってきた事を補足しておきます。
また、この問題に絡んで刑務所の問題は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E5%8B%99%E5%AE%98
といった所でも書かれていますが、この中で書かれている「スタンフォード監獄実験」については、私も違う質問で触れた事があります。
http://q.hatena.ne.jp/1149087246
ご参考までに・・・。
4.最後に
足早に書いているうちに長くなってしまいましたが、最後に誤解を恐れず言わせて頂ければ、データ比べる事に何の意味があるの?そんなものはどうでもよいのでは?と思っています。
いろんな方がご紹介されているデータに難癖つけてるわけではありません、どちらかと言うとよく見る方でデータを軽視するわけではありませんが、どちらの立場でもデータというのは都合の良いように作られやすく、それに付随したり、内包されている問題が隠されてしまいがちです。
そんな事より、もっと大前提で本質的な部分、命の尊さを考えれば、一人殺すのと二人以上殺すのとどっちが重いなんて事を比べる自体変な話だし、金銭絡んでようが絡んでまいが、人を殺すという行為は理屈ぬきで悪い事ですよね?
そしてその中でも、何の非もなく命を奪われた人、そして遺族の心情を考えれば、被害者より加害者が保護されている感の強い現状は、どう考えても違和感があると言わざるを得ません。
では、死刑にしたって、人の命を奪う事に変わりないじゃないかというご意見もあるでしょう。
これに関しては、
http://www.mypress.jp/v2_writers/van1977/story/?story_id=1502945
に宮崎哲弥氏の興味深い話が書かれていましたので、一部、抜粋します。
「被害者遺族支援をしている弁護士さんには、元々人権派弁護士として加害者のことしか見ないような死刑廃止論者だった人がいる。しかし、その人は自分の奥さんを殺されたことによって、初めて被害者の気持ちが理解できて、死刑賛成論者に変わった。人間の想像力なんてものは、その程度なものなんだよ。」
まさに私が思うのもこれで、まずこれが念頭にありますが、先の回答にも書きましたように法改正するにしても充分な議論と慎重な姿勢を崩さない事は同じく大切だと考えており、1で触れたように様々な観点から包括的に改善していく必要があると思う次第です。
ご参考になれば幸いです。
長文にわたるご回答、誠にありがとうございます。
確かに飲酒運転の件では、運転時に酒を飲む必要性なんて皆無であり、「飲酒運転そのもの」「ひき逃げそのもの」に刑罰を下すのが妥当であるわけですよね。それが、飲酒運転していて人を轢き、酔いが覚めてから出てきたような場合に刑が軽くなっていいはずがない。 そもそも未然に防げる段階で、こういった共通意識は当然持たせなければいけないですよね。
>>判決確定の日から6ヵ月以内に行使しないという決まりがありながら、
これは、死刑が確定した後に6ヶ月以内に法務大臣が死刑執行命令を行使「しなければいけない」ですよね?確かに6ヶ月以内に行使されることは殆どないですが(1年後などかなり間をあける)、これは一体何故なのでしょうか。死刑執行を待つまでの日々で、犯行を最大限に悔い続けて欲しいという事なのでしょうか。
昨今の加害者保護よりの強い現状は確かに見直されなければならないものがあると思います。宮崎氏の言うように、人間の想像力には限界があるのもあります。そもそも法律自体が人の想像ですからね。 では、想像の範囲でも妥当な合理性を保つには、どうすればいいのか。 法を厳罰化することも視野に入れる必要がありますが、マスコミや我々国民も、「法改正」よりも「そもそもやっては当然ダメな事」という根本的な所から入ってゆく必要がありますね。 要は、基本的な常識が揺らいでる部分がありますね。(勿論、社会も常識も時代と共に変動してゆくものですが、最低限の“型”が崩れてはいけない)
(飲酒)運転による殺人と、ナイフで刺し殺すような殺人では、要は殺意が事前からあったかなかったかというところでしょうか。運転の場合は、法の厳罰化や、おっしゃるように飲酒運転を防ぐような装置の車を導入するなどして、未然に防ぐ措置は有効な部分はあると思いますが、殺意を伴う殺人の場合、殺人者にとってその先にある刑の重さなどは殆ど視野に入ってない場合があるはずです。
では、例えば少年法の改正などに見られる年齢の引き下げは、増加する少年による凶悪犯罪に対応(未然に防ぐ)する為というよりも、法の厳罰化により共通意識を知らしめる(大人と同様に罰する事で罪の重さを認識させる)点に重点が置かれているのでしょうか。
「潔癖症」は言いすぎかもしれませんし、「少年法」の例も不適切だったかもしれません(ですので、反証となるデータも同時に例示しました)
ただ一番言いたかったのは、どのような手段であっても「思い知らせられれば」目的は達せられるという今の刑法の良心についてです。
犯罪は、どうみても割にあわない。そういうふうに今でもちゃんと刑法その他のシステムがつくられています。
http://photos.yahoo.co.jp/bc/proportiondesign/
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ko-tu-ihan/FAQ/bakkin-haraenai.ht...
にあるように交通犯罪でも赤色切符の罰金刑ではちゃんと「前科」がつき、払えなければ大事な会議や入試の予定があっても労役場に閉じ込められます。「前科持ち」であるともう一生、公務員(警察、教員など)に就職できないとか、司法以外にも細かい規則で犯罪者の生きる場所は狭められています。ある本では、交通事故で人を殺したらどうあってもすぐさま自殺したほうがマシだとまで書いてありました(もちろん飲酒改正前の時点で書かれた本です)。
そういう現行システム(に私はすでに慣れ親しんでいます)でさえも、「運送業だからしかたない」とか、「交通手段のない田舎で、あつまりをするには、往復3キロあるかなければいけないから自動車にのらなければ仕方ない」とシステム的に再犯せざるをえないと思っている人もいます。
もしも、仮に、交通犯罪の量刑をどんどんきつくしたら、自家用車は売れなくなるし、運輸業への就職は割りに合わなくなるので、郵政省が最強の状態にもどりますね。事実、現在の宅配業者は運転しながらケイタイで再配達指示をうける違法行為を堂々と行わなければノルマをこなせないところまで追い詰められています。私はこれについて良いとも悪いとも思いません。それが社会の動きなら追随しつつ自分の身を守るまでです。
今後犯罪を犯す可能性のある人たちの中には、「知りたくない」、「知らない」、「知ろうとさえ思わない」群があります。たとえば、日本語さえ読めない人も、移民や義務教育の放棄などにより今後増えることでしょう。そうでなくても忙しくて新聞もよまないしインターネットもやらない人もたくさんいるでしょう。
それらの人たちにとっては、「どうやって稼いで食っていくか」が優先で、複雑な世の中でさらに「リョウケイ」「インシュウンテン」「ショウネンホウ」の変更まで理解する力がないです。かろうじて、上司が朝礼で関連法規のことを訓示してくれたのを、理解できたら合格点?
逆に、ちゃんとした市民とか、特に警察の人は、「核家族」や「行政改革」で構成人員が少なくなってるのに、これだけの複雑なシステムを完璧にフォローしなければいけません。手一杯になってて、「自分と家族だけでも気をつけなきゃね。」くらいでしょう。私もそういうタイプです。繊細なバランスのなかで生きている人が大雑把な人に合法的に「あらかじめ思い知らせ」るのは非常にむずかしい。司法だけじゃなく、社会システムの微妙な変更、とくに、教育(企業教育もね)とか、「無理をさせない雇用(ノルマのない運送業なんてありますか?)」などをメインにしないと、逆効果です。やっちゃったあとでの量刑も、確かに、強いおまわりさんと同様、頼りにする手段の一部にはなりますが、それだけでホントにあらかじめ思い知らせられるか?逆にシステムがもっとおかしくなってきていて個人への負担(刑法は対象個人に限定して罰を決める法律ですよね)ばかりが重くなり、「つかまってひどい罰を受ける前に自分の家族を守るため自殺しよう」などの考え(これでは償いをする気が全くないのと同様です)がどんどん増えるのではないかと思います。(犯罪者の淘汰は望むところといわれたらかえす言葉もありませんが)http://72.14.203.104/search?ie=EUC-JP&lr=lang_ja&hl=ja&a...
不競法とか、全く刑法に関係なくてもひずみ犯罪の抑止力をつくろうとしているものもあります。
つまり、量刑のみでなんとかするのは無理です(みなさんもそのことを繰り返しおっしゃっているのだと思います。)
で、元の話に戻しますと、blue-seaさんのお友達たちは「常識では考えられないことをした人」をあぶりだすために「理由がない」とか「故意」などの条件を挙げているのでしょうが、短絡的なお考えであり陥穽が多いように見受けられます。5-7において、理系大学生向けにバランスのとれる反証を対置しつつ論証の材料を挙げたつもりです(7は個人的感想が多くなってしまいましたが)
教養で法学の講義をとればもっといろいろ詳しく知る機会があると思いますよ。是非、若い優秀な頭脳で、うまいやり方を考えていってください(もちろん、飲酒したらモーターがまわらない車にするという理系的な解決方法をつきつめるのもありです)。まだまだ、時間はたっぷりありますよ・・
3度目の回答失礼します。
>>判決確定の日から6ヵ月以内に行使しないという決まりがありながら、
これは、死刑が確定した後に6ヶ月以内に法務大臣が死刑執行命令を行使「しなければいけない」ですよね?確かに6ヶ月以内に行使されることは殆どないですが(1年後などかなり間をあける)、これは一体何故なのでしょうか。死刑執行を待つまでの日々で、犯行を最大限に悔い続けて欲しいという事なのでしょうか。
この話も説明すると長くなるので、何かいい説明ないか探してみましたが、
http://www.geocities.jp/aphros67/050500.htm
がご参考になるかと思います。
昨今の加害者保護よりの強い現状は確かに見直されなければならないものがあると思います。宮崎氏の言うように、人間の想像力には限界があるのもあります。そもそも法律自体が人の想像ですからね。 では、想像の範囲でも妥当な合理性を保つには、どうすればいいのか。 法を厳罰化することも視野に入れる必要がありますが、マスコミや我々国民も、「法改正」よりも「そもそもやっては当然ダメな事」という根本的な所から入ってゆく必要がありますね。 要は、基本的な常識が揺らいでる部分がありますね。(勿論、社会も常識も時代と共に変動してゆくものですが、最低限の“型”が崩れてはいけない)
後にも書きたいと思いますが、おっしゃる通りだと思います。
(飲酒)運転による殺人と、ナイフで刺し殺すような殺人では、要は殺意が事前からあったかなかったかというところでしょうか。運転の場合は、法の厳罰化や、おっしゃるように飲酒運転を防ぐような装置の車を導入するなどして、未然に防ぐ措置は有効な部分はあると思いますが、殺意を伴う殺人の場合、殺人者にとってその先にある刑の重さなどは殆ど視野に入ってない場合があるはずです。
では、例えば少年法の改正などに見られる年齢の引き下げは、増加する少年による凶悪犯罪に対応(未然に防ぐ)する為というよりも、法の厳罰化により共通意識を知らしめる(大人と同様に罰する事で罪の重さを認識させる)点に重点が置かれているのでしょうか。
それもあるでしょうし、ある種、閉ざされた中で行なわれた裁判が、果たして公平に裁かれているのかという点も鑑みなければなりませんが、私見では、詰まるところ、これも飲酒運転の問題と同じかと思っています。
確かに、経験が浅く、判断力を欠きやすい子供達を守る事、再び過ちを繰り返さないためのカウンセリングや、社会復帰のチャンスを与える事、受け入れる側の社会の問題というのもあわせて考えていく必要あるでしょう。
しかしながら、これほど情報過多の中で、皆の知識と潜在意識の中には法は自分達に対して甘いという気持ちがあるはずです。
極論言えば、平時から、人を殺しても何も問わないという世界と、人を殺せば無条件で自分の命も失うという事が分かっている世界と、あなたはどちらが犯罪減ると思いますか?と考えれば、答えは明白でしょう。
本当は厳罰なんて無い方がいい。しかしながら人の心は弱い、そして法の抜け穴を利用する人間もいる。
この点に関して「割れ窓理論」というのが存在します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E7%AA%93%E7%90%8...
これに補足するなら、銃社会で犯罪大国のアメリカと日本を比べるのはどうなの?という点や、過去の少年犯罪より、現在の方が少ないじゃないかというご意見もあるでしょう。
しかしながら、抑止される法律があれば、それによって一人の命でも救われれば、それは大きな意味を持つのではないでしょうか?
それに対してそれを悪用して人を殺せば自分も死ねるといった想定について私が思うのは、まず大前提としてそういう環境や社会にしている私も含めた一人一人の責任であるという立場にたたなければならないと思っています。
それは、例えば道端のゴミ捨てを思い出してみれば分かりやすいように思います。
誰か一人が、道端に吸殻や空き缶を捨てたとします。
するとその場所は、皆が捨てていい場所のようにゴミの山となってしまっている光景は日本でもよく見かけますよね?
これって、一人一人の意識の問題ですよね?
いや、自分は捨てたことがないって方もおられるでしょう。
でもね、今度は例えを変えて、あなたは電車乗って席に座ったとして、目の前にお年寄りや具合の悪そうに見える人が目の前に立ったら、席を譲りますか?と聞かれたらどうでしょうか?
いや、自分は席を譲ります、そもそも座ることないって方もおられるでしょう。
ちょっと待ってください。
自分には関係なければそれでいいんですか?
何か自分にできることはないですか?
例えば私が以前レディーファーストの質問で書いたお話をさせて頂きたいと思います。
ある国でバスに乗った時の事です。
目の前には親子(お父さんと小学生くらいの息子さん)が座っていました。
その前に女性が立ったとき、お父さんから息子さんに目をあわせると、息子さんがにこっと微笑みながら「どうぞ」と声をかけて、二人で席を譲りました。
小学生の男の子がですよ?それもアイコンタクトで。
日本ならとても考えられないシーンではないでしょうか?
そのあまりに自然な振る舞いに、はなはだ感心したものです。
これも一例ではありますが、喜怒哀楽、趣味思考、価値観も異なる人達の集まりの中で、人も、法律も、完璧でありえるのは所詮無理な相談です。
しかしながら、皆が住みやすい社会を目指すというのは、私が、そしてあなたが、そして大人達が、そして子供達が、皆でこうして考えながら、心配り、語り合いを続けながら、自らの姿勢を正していくための努力もまた必要だと思うのです。
かくいう私も決して褒められるような青春時代を送ってきたわけではありません。
そんな私が自分が子供の頃に感じたカッコ悪い大人にだけはなりたくない、批判する前に自らできる事がないか考えようと思うようになってきました。
まずは、皆で自分ができることからはじめましょうよって事です。
その小さな積み重ねが、やがて大きな力となると思うのです。
昨日の自分よりも、今日の自分が好きになれるように。
そして、それによって家族が、そして周りの人たちが少しでも笑っていられるように・・・
ご参考になれば幸いです。
回答ありがとうございます。
人が作り出す以上矛盾が生じるのは私も同意なのですが、
「ではどうすべきなのか」を第三者的な見解ではなく、eiyan様自身の言葉で説明していただければ光栄です。