※注 他人を批判するときは、主張そのものや「その人」を攻撃するのではなくて、「その主張」の理由、前提などを攻撃してください。議論の基本です。
という考え方なので自殺することは全然、否定しません。
残された遺族にとっては、辛いことかもしれないけれども、自殺した本人はこの世にすでに居ないのだから・・・
ただし、確実に死ねる方法で自殺しようね。そうでないと、看病しないといけない人たちが辛いから。
さて、質問の意図が、どっちにも取れるのですが、どちらでしょうか?
私は、1だと思いまして、自殺幇助がなんで罪になるんだろうと考えてしまいました・・・
自殺の名所なんかによくあるらしい、「もう一度、考え直せ」という看板、考え方によっては、自殺幇助ですよね、それとも、自殺教唆なのかな?
それはさておき、自殺幇助が罪に問われるのは、その行為が自殺者の意思において依頼され実施された行為か、第三者の意図により実施されたか判断することが難しいからではないでしょうか?
いっそのこと、業務上過失致死傷罪あるいは、重過失致死傷罪にひっくるめてしまっても良いような気もします。
ところで、最近亡くなった、作家の吉村昭さんは「自決」だったという話があります。(「自決」というのは美談にしすぎだと思うけど)
この例の行為は「緩やかな自殺」だし、最期を看取った長女などは自殺幇助に問われてもおかしくないと思いますがどうなんでしょうか?
1. 自殺しようとしている人から自殺を手伝ってと言われて手伝うのはダメという理由
2. 自殺しようとしている人を助けるのはダメという理由
1です。
まず、自殺そのものがダメなのか 幇助するのが殺人っぽいのでダメなのかがよくわからないところ。
誰か刑法に詳しい人募集。ググればわかるかもしれないが、いわしに書いて欲しい。
で、待ってもでなかったので、ウィキってみた。
そうすると、
自殺はその未遂も含めて処罰されないのにも関わらず、自殺関与が処罰されるのはなぜかという疑問に対しては以下のように説明される。
まず、自殺が処罰されない理由として、自殺は違法な行為であるが責任が阻却されるので処罰されないとする立場と、自殺は本来的に違法ではないとする立場がある。 前者の立場は、自殺という違法な行為に関与した者をその共犯として捉え、処罰できるのであると説明する。一方、自殺は違法ではないとする後者の立場は、共犯云々とは関係なく、生命のあり方を決めることができるのは本人だけだと考え、自殺関与のように他人の生命を左右し、生命を侵害する行為それ自体が違法となるため、処罰できると説明する。
とかあった。
で、結局学説でも、自殺が違法かどうか決着がついていない(通説はどちらかだろうが)ことが判明。
しかし、私としては自殺が違法であるならば、条文に自殺したものは罰するとか書いてあると思うので、自殺は責任阻却説に立ってみる。
そうすると、生命決定権は自殺者本人だけになるので、他人がどうこういうのが違法になるらしい。したがって、教唆はもちろん、幇助も違法になるらしい。
余談ですが、クリントイーストウッドのミリオンダラーベイビーは安楽死問題があり、ストーリー的にも面白くオススメです。
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安楽死
私の立場からすると、安楽死についても生命決定権が本人だけにありそうなので、チューブを外したりとかは違法になる。
しかし、生命決定権が本人にあるならば、自殺を決めた本人に対してその手助けをするのも、どうも違法にはならないような気がする。
どうもモヤモヤ
しかし、生命決定権が本人にあるならば、自殺を決めた本人に対してその手助けをするのも、どうも違法にはならないような気がする。
生命は、一旦失われると、二度とかえってはきません。
だから、例えどんな苦痛があって、本人が「殺してくれ。」と言っていたとしても、本当に殺しては絶対にいけないのです。
ひょっとすると、翌日に、どこかで誰かがその苦痛を取り除く魔法の薬を発明するかもしれません。
しかし、死んだ人間、一旦失われた生命が復活する魔法の薬はないのです。(将来にわたっても開発はおそらく不可能でしょう。)
生命は、一旦失われると、二度とかえってはきません。
だからといって、
本当に殺しては絶対にいけないのです。
とはいえないかと。たしかに、二度とは戻らないものであるほど、大事なものであるが。もう少し、説明してほしい。
個人的には生命以上に大事なモノはない、と思いますが、
生命以上に大事な者があるのかもしれません。
ただ多くの場合それは、その人個人の信条に左右されるので、
その信条を他人に押しつけるのはあまりよろしくないと思います。
人はそれぞれ違っていて当然ですから。
(ただこれは、よくよく考えるとtautologyなんですけど。)
胎児も死ねば、元に戻らないが、母体保護のため一定条件の下で胎児の命を絶つことが許容されている。
この場合は、
生命は、一旦失われると、二度とかえってはこない
ものだが、殺しているので前記記述と整合性がとれないかと。(注若干、論点がずれました)
死を選んだ人を止めることができる唯一の人間はその人の人生の全てに責任を持てる人だけです。死を止められた人間にとっては、その後の人生において苦難がある度に、あの時止められなければ…という思いに取り憑かれるでしょう。それでもまた死ねる人は良いですが、多くの人は再び死を選ぶことを躊躇してしまいます。死を選ぶにも大変なエネルギーが必要なのです。止める側が相手の面倒を一生みることができるのか、その覚悟はあるのか、それが重要です。ただ助けてハイさよならでは虫が良すぎるのです。自己満足な行動では人は救えません。
死を選んだ人を止めることができる唯一の人間はその人の人生の全てに責任を持てる人だけです。
全責任をとれる人なんかいる訳がない。人は全能の神ではないのだから。
上の、zhenghyi さんへの返信をお読み下さい。
身近な存在で例えると、子を持つ親です。愛する子供が死を選ぶ時、止めない親はいません。特に母親はそうでしょう。愛する子供が生きてくれるならば、自分に可能なことは何でもしてくれるでしょう。自らの存在が続くまで…。
■zhengyi様、私の極論の哲学へのご理解、感謝致します。
ad1975さんは、生活面、精神面でのことを言ったと思う。したがって、神でなくてもこの意味の責任はとれるだろう。
何か質問とは趣旨がずれてきた気がするんだが…いわしだからしゃーないか。
だったら、僕は、安楽死は例え本人が望んでも、選択すべきではないと考えています。
本人の、その時の決断が正しい、とは言えないからです。
僕は、五年以上前に交通事故に遭って、15年前なら脳死だったろうと言われました。
だから、事故直後だったら、こんな苦しい思いをするくらいなら、いっそひと思いにあの時…なんて思いましたが、今はそんな風には思いません。
確かに、こんな時間に眠れなくて、常人とは違うから、社会に合わせることは出来ませんけど、それを適当に補っていけば(また、今の時代都会には24時間営業のコンビにもあるし、それが十分可能です。)、毎日が楽しくて仕方ないからです。
だから、僕は、自分の体験を元に、死は絶対選択すべきではないし、選択することを許してもいけない、と思っています。
とりあえず、積極的安楽死について考えます。
積極的安楽死とは、薬物を投与するなどの積極的方法で死期を早めること。いわば医療の名の下に行われる自殺幇助ということになり、社会からの心理的抵抗は大きい。また、日本を含む多くの国では刑事犯罪として扱われる。
以下安楽死と記載されてるものは、積極的安楽死の意味です。
で、安楽死は、自殺幇助になるから違法になるのですが、安楽死を認めるには、たとえば
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
を
人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。但し、○○法に定められている場合を除く
とあり、○○法では、
医師などの医療従事者が、一定の要件を満たした場合には、処罰しないと書かれることにより、一応安楽死は認められたといえるかと思います。
で、とりあえず法律が通らないことにはどうともいえないのですが、そのためには日本の社会で安楽死に関する議論がされなければなりません。
で、なぜ安楽死が日本で認められないっぽいかといえば、
「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助が一般化する可能性があると主張している。
に代表されるように、特に自殺幇助が広まりかねないと危惧されるからでしょう。
で、ここで疑問なのですが、安楽死が許容されている
* アメリカ(オレゴン州) - 1994年「尊厳死法 (Death with Dignity Act)」成立
* オランダ- 2001年「安楽死法」可決。
* ベルギー- 2002年「安楽死法」可決。
* フランス- 2005年「尊厳死法」可決。
* スイス- 1942年
では、自殺幇助が広まっているのでしょうか、何かデータがあったら誰か見せてください。
たしかに、安楽死法が成立すれば、今までに比べて苦痛に耐えている人が一時的な感情により自殺する人が発生するでしょう。
で、ここからは価値判断の違いなのですが、結局は
自殺の決定は自己決定権に含まれるかの判断の違い
だと思います。
で、国民の間で自殺が自己決定権に含まれると考えられるようになるには、何が必要なのでしょうか。
ところで、この問題は普段何気なく生活しても考えることではなくて、身近な人が関わらない限りはなかなか考えないかと。
で、私が思うに、
ミリオンダラーベイビーが何かきっかけのような感じ
、がしたんです。
つまり、映画(別にミリオンダラーベイビー以外でもいいが)を見ることによって安楽死を考えるようになる人が多いかもしれんと。
いや、別に安楽死だけではなくて、戦争とかもそうだけどね。但し、映画は監督の主観が入っている部分はしょうがなし、単に議論のきっかけになれば…
もちろん、小説などの本でもいいのだけれど、
「よーし、安楽死問題を考えてみっか」と考えないように気がする。というか、テーマが重いため見る人が少ないため、社会に対する影響力が少ないと思われる。
この点、映画は娯楽性、俳優の好みなどで何百万人も見る可能性があるかと。
だから、誰かそういう映画を作ってくれないかなと考えています。ミリオンダラーベイビーはよかった。9月1日でNHKでやってたけれど、硫黄島の事件のドキュメンタリーもイーストウッドは作ってるみたいで、いいですね。もし、日本で(別に日本以外でもいいけど、とにかく日本で配給できれば)ああいう監督がいてインパクトのある監督がおり、制作費がなかったら、何億円か出したい。もちろん、私自身が安楽死は認めるべきだと、考えており、それを主張する手段としてという意味があるが。
刑法では、自殺幇助は罰せられることになっていますが、自分で命を絶とうとしている人を助けるのを禁止する理由はどのようなものがありますか。